会津松平家14代当主松平保久様招聘事業

150年の時を超え、世代を超えて実現する物語

 幕末、北の大地「蝦夷地」に新たな領地を貰い受けた会津藩は、ここに初めて自らの海を手に入れることができました。欧米列強を前に幕藩体制が大きく揺れる中、蝦夷地に派遣された会津藩士達は、標津の豊富な水産資源・木材資源を目の当たりにし、新たな時代を切り拓くための財政再建と、欧米列強に対抗する道筋を構想しました。その藩士達の想いを藩主松平容保公にお伝えするため描かれたものが、「標津番屋屏風」です。豊かな蝦夷地に目指すべき未来の姿を見出し、いつの日か主君にも足を運んでもらうことを待ち望みながらも、時代に翻弄され、ついに実現できなかった藩士達の想い。かつて日本列島の東方、「メナシ」の地に置き忘れられた幕末会津藩士達の想いを、150年の時を経たいま、会津松平家直系の子孫である14代当主松平保久様をお招きすることで現在に紡ぎ、標津町の礎を築いた会津藩士達の精神を改めて顕彰します。

この事業について

 会津松平家14代当主松平保久氏招聘事業は、9代松平容保公直系の子孫である保久様をお招きし、幕末に標津を拠点に北辺防衛の任にあたった会津藩士達の供養と、記念の催しを行うものです。
 事業は標津町内各所にて、標津町の官民連携による実行委員会参列の下で行われますが、下記の催しは広く一般に公開して行われます。

    ※本事業は終了しました。

  催し名:会津松平家14代当主松平保久様講演会
  日 時:平成30年7月8日(日)13時30分~16時
  会 場:標津町生涯学習センターあすぱる
  主 催:会津松平家14代当主松平保久様招聘事業実行委員会
  講演テーマ:標津町の礎を築いた会津藩の精神
  申し込み:不 要
  参加料:無 料
  お問い合わせ:標津町ポー川史跡自然公園
             電話:0153-82-3674
   ※講演終了後、参加者に会津郷土料理こづゆを振る舞い、
   この歴史的日を祝います。

標津町と会津藩の関わり

幕末会津藩北辺防衛のはじまり

安政六年の蝦夷地各藩分領区分図

嘉永六年(1853)、アメリカ使節ペリーが黒船で浦賀に来航した同じ年、ロシア使節プチャーチンもまた長崎に来航し、日本列島北辺での国境画定と、ロシア船補給のための開港を迫りました。これを受け、翌安政元年(1854)12月には日露通好条約が締結され、千島列島の択捉島とウルップ島との間に国境が定められました。
それまで明確な境界の無かった蝦夷地が、この条約により二国間で取り決めた国境の内に組み込まれ、「日本」の一部となっていきました。そして安政二年(1855)、江戸幕府は従来松前藩の管轄下にあった蝦夷地を直轄地とし、東北諸藩に沿岸警備を命じます。しかし蝦夷地警備は多大な財政負担を強いることから、警備地を各藩の領地とし、開拓権を与える方向へと転換していきました。こうして安政六年(1859)11月、広大な蝦夷地を分割し、仙台藩、秋田藩、津軽藩、南部藩、庄内藩、そして会津藩に領地として分け与え、各藩分割統治による開拓と警備が始まりました。

会津藩蝦夷地御領分シベツ元陣屋

御陣屋御造営日記

会津藩は蝦夷地統治の拠点をシベツ(標津)に定め、ここに警備拠点となる元陣屋を築きました。陣屋が築かれたのは現在の標津市街地南側に位置するホニコイと呼ばれる地区です。この会津藩による陣屋建設の記録が記された貴重な史料『蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記』が、標津町指定文化財として残されています。

陣屋関連施設が見つかった場所

 昭和57年、標津町ホニコイ地区の海岸段丘上を発掘調査した際、会津藩が建設した陣屋関係施設の一部と推定される構築物の存在が確認されました。構築物はアイヌの時代のチャシ跡を再利用するかたちで設けられたようで、チャシ跡周辺から、チャシの時代よりも新しい柱の跡などが見つかりました。

標津代官南摩綱紀

南摩綱紀肖像(『環碧楼遺稿』より)

南摩綱紀は、文政六年(1823)に若松城下で生まれ、幕末から明治の時代を生きた会津藩士です。幕末会津藩においては、秋月悌次郎と並ぶ秀才と称されていました。26歳の時から入門する江戸の昌平黌時代、南摩は黒船を目の当たりにします。欧米列強の科学の先進性を痛感した南摩は、以後洋学を学ぶと共に、当時江戸にあり、海防問題の第一人者として名声を上げていた松浦武四郎の下を頻繁に訪問する中で、日本列島北辺の地「蝦夷地」について知ることとなりました。武四郎との交友は以後明治の時代まで続き、武四郎が亡くなった際、遺言により三重県大台ケ原に分骨碑が建立されますが、その碑文は南摩によって撰文されています。

標津番屋屏風

南摩が蝦夷地代官となるのは文久二年(1862)のことでした。この年は、藩主松平容保公が京都守護職に任ぜられ、藩兵一千人を引き連れて京都入りした年でもあります。江戸や西国で漢学、洋学を学び、知見を広げてきた南摩にとって、藩の一大事に藩主の下から遠く離れた北の地に赴かなければならないことは、深い失意の念をもたらすものでした。しかし標津入りした南摩が目にしたのは、標津川を上る大量の鮭の群れと、造船にも適したミズナラといった蝦夷地の良質な資源の存在でした。新領地の豊かな資源に触れた時、南摩は会津藩、そして日本が、欧米列強の脅威に対抗していくための新時代構想を描き始めます。その構想を絵に表し、当時京都にあった藩主容保公に伝えるために誕生したものが、標津番屋屏風です。この絵を持って資源豊富で可能性を秘めた新領地の姿を伝え、いつの日か藩主容保公を標津の地にお招きすることを望んでいたのかもしれません。

アイヌ語で書かれた教書(別海町郷土資料館所蔵)

南摩は蝦夷地在勤中、藩士の子弟だけでなく、現地のアイヌの人々への教育活動にも力を入れていました。松浦武四郎と交友を深めていた南摩は、異文化を理解する心を持っており、アイヌの人々を蔑視することなく、当時としては珍しい、文化風習が異なるだけの同じ人間として正しく見る目を持っていました。南摩はアイヌの人々と理解しあうには、互いの価値観の違いを知ることが重要と考えます。そこで誕生したのが、当時の標津場所支配人でアイヌ語大通辞として知られた加賀屋伝蔵に訳させた、アイヌ語の教書です。南摩は政務の傍ら、暇さえあればこの教書を持って村々をめぐり、アイヌの人々に対し、和人の価値観をアイヌ語で伝えて回ったのです。

標津町指定文化財「会津藩士の墓」

会津藩士の墓

慶応四年(1868)、戊辰戦争の始まりにより、標津にあった会津藩士達は、そのほとんどが郷里会津へと戻り、会津戦争に臨むこととなりました。幕末の混乱により、会津にはこの時代に行われた北方警備の記録がほとんど残されていないといいます。しかし確かに会津藩士達が標津に来ていたことを示す証拠があります。それが野付半島に残る会津藩士の墓です。

会津藩士供養祭の様子

稲村兼久とその孫、そして佐藤某の名が刻まれた2基の墓は、文久二年(1862)に標津で亡くなった会津藩士とその家族の墓石です。この墓石は現在標津町の文化財として保存され、墓石の横には自衛隊と標津町による会津藩士顕彰碑が建立されています。そして毎年8月13日の早朝には、地域の人々が主催となり、会津藩士供養祭が行われています。
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標津町 ポー川史跡自然公園TEL:0153-82-3674