―哀愁のアッカンベッ― ユリカとラフシュイの恋

 むかし、むかし、シャリのアッカンベッ(現在斜里町朱円別地方)にアイヌコタン(アイヌ村)がありました。
そのコタンに、武器を作るのがうまいチリカアエノと、いろいろないれ物を作るのがじょうずなラフシュイという若者がいました。
チリカアエノは村長の親せきで、何かといばる若者でした。ラフシュイは、父親をはやく亡くし、母親1人に育てられましたが、素直で明るく育ちました。しかし、村に有力な身内はいませんでした。
村長はラフシュイの性格を好み、かわいがることがありました。チリカアエノはそれをやっかんで、二人はときどき対立しました。
当時、山をこえたシベツコタンへ毎年アッカンベッコタンの代表が使いに行くことになっていました。昨年はラフシュイが出かけ、今年はチリカアエノが行くことになっていました。
だいじな使いに行く日がちかいというある日、チリカアエノは大きな穴熊のいる場所をききましたチリカアエノは、自分が勇者であることをしめしたくて、コタンの人たちに内緒で狩に出かけました。雪がまだ少しつもっていますが、日が照り、暖かい日でした。
熊の穴をみつけ、熊をしとめる用意をしていると、暖かい陽気と穴の外の異様な気配に冬眠から目をさました熊は、突然チリカアエノの前へ出てきました。
おどろいたチリカアエノはとっさに槍を手にとり、熊に槍を投げつけました。しかし、熊の皮が厚く、槍は折れてしまいました。あわててマキリ(小刀)を持ち、かまえましたが、しだいに熊のいきおいにおされ、雪に足をとられてころび、ついに右うでをガブリとやられてしまいました。意識がもうろうとしてきたとき、だれかが熊にむかっていくのを感じましたが、とうとう気を失ってしまいました。
チリカアエノを助けたのはラフシュイでした。ラフシュイはシベツへ村の使いで出かけるチリカアエノにお祝いをしようと家をたずねるところ、山へ出かけたと聞いたので、もしものことがあってはと心配して、山へチリカアエノのあとを追ったのでした。
熊の穴についたとき、熊がチリカアエノの右うでにかみついたところだったので、夢中でマキリをぬいて熊の心臓をさしてチリカアエノを助けたのでした。
ラフシュイは、自分がチリカアエノを助けたことはだれにも言いませんでした。チリカアエノは大熊をたおしたということでコタンの人びとからほめられました。しかし、村長のクルシュヘッには、熊の傷口からみて、ラフシュイがたおした熊であることがすぐにわかりました。

チリカアエノがけがをしたため、ラフシュイがかわりにシベツコタンへ使いに行くことになりました。シベツコタンの村長の一人娘ユリカが、5月に婿をとることになっていたので、お祝いの贈り物を届ける役目なのです。贈り物は、大熊の毛皮とラフシュイの作った盃でした。
ラフシュイは、母に見送られて旅立ちました。大熊の毛皮はとても重いので、苦労して峠をこえました。シベツ近くの海岸のイチャニについたのは太陽が西にかたむき、海のむこうに国後島が黒々とみえる夕方でした。ラフシュイはたいへんつかれていましたが、もう少しでシベツにつくと思いなおし、重い荷をかつぎなおして歩きました。昨年使いにきたときに会った村長の娘ユリカの顔を思いうかべると、元気が出てきました。

シベツコタンは、海や川には魚が多く、山には鹿や熊などが多くいました。コタンの人たちは豊かな生活をしていました。
シベツコタンの村長はチョウタケレといい、イチャニからチャシコツまで治めていました。妻はオクシナマツといい、一人娘のユリカはあと1カ月でエベタラという養子を迎えることになっていました。
村長の家についたラフシュイは、アッカンベッコタンの村長クルシュヘッの口上をのべて、お祝いの品々を差し出しました。チョウタケレは大へん喜び、さまざまなごちそうを出してラフシュイをもてなしました。ラフシュイは、熊を仕止めた時のようすを娘のユリカに話してやりました。
翌朝、村長夫妻はラフシュイと朝食を共にしました。それは名誉なことで、ラフシュイは大へん喜びました。ユリカも嬉しそうに朝食の世話をしました。
そのようすをみていた母親のオクシナマツは、ユリカが寝言でラフシュイの名を言っていたのを思い出し、胸を痛くしました。また、昨年ユリカが原因不明の病気で寝こんだのも、ラフシュイに原因があったと気がつきました。ユリカは村長の一人娘で、村長のあとつぎです。村のきびしいきまりで養子をとらねばなりません。自分で婿を選ぶことはできないのです。村の長老たちが何日もかけて相談して、エベタラという婿をきめ、まもなく結婚式をあげることになっていました。
母のオクシナマツはエベタラを好人物と思えないので、婿にするのを反対したかったのですが、母親は発言してはいけないことになっていたので、悲しい思いをしていました。
村長の家にラフシュイがきたという話は村中にすぐに広まり、知りあいが多ぜい集まってきました。
村長も喜んで、婚礼のために用意しておいたお酒を出してきてみんなにふるまいました。
その夜のことです。
「ラフシュイ、ラフシュイ」
という呼び声に目をさましたラフシュイは、その声がユリカの声であることに気がつきました。二人はそっと家を出て、浜辺の石に腰をおろして話をしました。ユリカは、昨年ラフシュイをみた時から好きになったことを泣きながらうったえました。ラフシュイは声を出さず、ただただユリカの手をしっかりとにぎるだけでした。
やがて、母親のユリカをさがす声がきこえてきました。ユリカは帰っていきました。ラフシュイは、ゆれ動く心に困って海をじっとみつめていました。どれだけじっとしていたことか。
ユリカが母親といっしょにラフシュイの所へもどってきました。
「ユリカからあなたの事を聞きました。私にもむかし同じことがありました。私にできなかったことを、ユリカになんとかとげさせたいと思います。コタンにはおきてがあって、村長の娘は自由に相手を選べません。あなた達には自由に生きてほしいのです。だまって私にまかせて下さい。悪いようにはしません」
次の日、オクシナマツは、
「今夜たって下さい。すべての準備はしておきます」
と、ラフシュイにそっと耳うちしました。
オクシナマツは夕食のとき、お酒にねむり薬をいれ、婿に入る予定のエベタラと夫のチョウタケレに飲ませました。何も知らないチョウタケレは機嫌よくラフシュイに「アッカンベッコタンの村長への贈り物の用意があるから、もう4日ほどシベツコタンにいてほしい」とラフシュイにたのみました。
まもなく薬がきいて、二人はぐっすり寝こんでしまいました。
オクシナマツは、
「ここから西へ行けば、温泉がわいている所があるそうです。クスリの土地だから安全でしょう。みつからぬうちに行っておくれ!」とサラニップ(編んだかご)に食料や着がえをいっぱいつめて二人を送り出しました。

次の日、チョウタケレのどなり声がひびきわたりました。
「ユリカとラフシュイがいない。ユリカ、ユリカ、どこだ、どこだ、二人はかけおちしたのだ。けしからん、二人をさがせ!二人をつれもどせ!」
婿になるはずだったエベタラも、気がちがったようにわめきました。
コタンの人々は、二人をさがしに出かけて行きました。オクシナマツはじっと夫の顔をみつめたまま、青白い顔をして静かに涙を流し続けました。口もききませんでした。夫のチョウタケレは「妻は気がちがったのではないか」と思い、刺激しないように気をつかいました。オクシナマツは二人のことはいっさい口にしませんでした。
エベタラは、ラフシュイがユリカをアッカンベッコタンへ連れて行ったかもしれないと考え、仲間数名でさがしに行きました。ユリカがいなくなったのは、ラフシュイが悪いからときめつけて対応するので、アッカンベッコタンの人たちは腹を立て、とうとう両方のコタンの争いになってしまいました。
シベツコタンは人数も多く、武器もたくさんありました。それにくらべてアッカンベッコタンは人数も少ない不利と思われましたが、ウナベツコタンやオンネベッコタンから応援の人々がきて争いは長々と続き、ついに18年もたってしまいました。
18年めにアッケシからシベツコタンへ応援がきました。アッカンベッコタンの村長クルシュヘッは毒矢が胸にあたり遂に亡くなってしまいました。「ラフシュイはよい男であった」がさいごのことばでした。そして、アッカンベッコタンはとうとうまけてしまいました。アッカンベッコタンはなくなり、戦死者の亡霊が出るという噂が広まって、人が住まなくなりました。
シベツコタンの方は大いに栄えたということです。

 母のオクシナマツに見送られてシベツに別れをつげたユリカとラフシュイは、重い荷をもってマシュウを越え、やっと温泉のある所(川湯)に着きました。
二人はエゾ松を伐り、家を建てました。温泉があるので、シベツやアッカンベッより暖かくすごせました。2つのコタンが争いを続けていることも知らずに二人は幸福に暮らし、かわいい子どもも生まれました。その子どもが16歳になったとき、友達とウトロへ出かけました。そして、アッカンベッコタンと、シベツコタンの18年間にわたる争いの話を聞いてきて、両親に語りました。
さいごに
「ねえ!なぜ好きな人同士が夫婦になってはいけないの?そんなおきてがあったの?」
二人は、胸がいっぱいで答えることができませんでした。
二人が逃げたことから18年間も戦が続き、多くの人が死んだ・・・・・・。
オクシナマツは、二人のことはもらさずに亡くなりました。
二人も、このことをもらすことはないでしょう。
その後、アッカンベッの戦場のあとに、黒ゆりをささげる二人の姿が毎年みられたということです。
  • 解説
この話は、斜里町の栗沢喜重郎氏が昭和48年に出された「反逆―哀愁のアッカンベッ」をもとにしています。同書によると明治10年ごろ、鈴木養太氏ウナベッコタン(斜里町)の首領坂井文吉氏から話を聞き、その後明治40年に開拓者として入植した広沼定冶氏に口伝されたものを、昭和18年に栗原氏へ広沼氏が語った伝説ということのようです。
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