―山の神の争い― 逃げだしたカムイヌプリ

 クッシャロこの奥にあるモコト山は、むかし「トーエトコウッペ(湖・の頭の先・にいつもいる・者)」という名前の神様でした。大へんわがままな神様で、少しでも気にいらないことがあると、煙をいきおいよく吐いたり、火のかたまりを降らせたり、あつい灰を遠くへとばせたり、大地をゆるがして乱暴をはたらきました。
あたりの山々や人間たちは、そのたびにひどく迷惑に思い、みんな困っておりました。
クッシャロ湖の水は釧路川となって流れおちるのですが、その落とし口の近くに「ピンネシリ(男である・山)」という山が住んでいました。ピンネシリは、みんなのためにトーエトコウッペをこらしめてやろうと決心しました。ピンネシリは、勇んでトーエトコウッペに果たしあいを申し込みました。トーエトコウッペはうけてたちました。
まず、ピンネシリが槍を投げつけました。ねらったとおり、トーエトコウッペの胴の真中にズブリと突きささりました。胴は裂け、傷口からは血がどっと出て、クッシャロ湖の岸の岩を真赤にそめました。
「痛い!痛い!」
モコト山(トーエトコウッペ)は、すっかりおこってしまいました。血をふきながら、モコト山は力いっぱい槍を投げ返しました。ねらいははずれて、肩のあたりを少し傷つけただけで、槍ははるかうしろにとんで行き、マシュウ湖のほとりの「カムイヌプリ(神の山、マシュウ岳のこと)」の足に突きささってしまいました。そのためカムイヌプリはひどく腹をたて、クナシリ島へとんで行き、クナシリ島の「チャチャヌプリ(親爺・山)」のそばに身をよせました。しかし、天気のよい日には、アカンの方にモコト山のもがき苦しむ姿がみえるのがいやがって、さらにエトロフ島にとんで行きました。カムイヌプリのことを「オメゥケヌプリ(抜けて行った・山)」、あるいは「イケスィヌプリ(怒って去った・山)」ともいうのは、このようないわれがあったからです。
クナシリ島の「チャチャヌプリ」のそばの大きな沼、東ビロク湖は、カムイヌプリがそこからエトロフ島へとび去ったあとだということです。クシロやアカンのアイヌが千島へ行くと、晴天の日でも雨が降るそうです。それは、カムイヌプリが故郷を思い出して流す涙なのだそうです。このさわぎがあってから、モコト山はすっかりおとなしくなり、火を噴いたり、灰を降らせたりしなくなりました。大地をゆるがすこともしなくなりました。ピンネシリの槍に傷つけられたところは「ヌプリエペレッ(山が・顔を・割った・ところ)」という大沢になり、今はドンドン川が血の色をしていきおいよく流れています。血に染まった岩は、今でもまだ湖畔に残っているといいます。
ピンネシリは、その時以来「オプタテッケ(槍が・そこで・それた)」と呼ばれるようになりました。肩の傷は、今も岩が露出していて、むかしの面影をとどめています。
マシュウの湖畔のカムイヌプリのすその赤い岩は、当時カムイヌプリが流した血であり、対岸の白い岩は、その涙のあとであると云い伝えられています。
カムイヌプリがクナシリ島へとんで行くとき、食料にとウバユリをふところに入れていました。それがニシベツ(浜別海)やシベツやラウスの海岸に少しこぼれおちました。それでウバユリが今でもあちこちに生まれているそうです。

知里真志保「アイヌ語入門」槍書房昭和31年より
  • 解説
知里真志保氏は、北海道大学の教授で言語学者でした。アイヌ語関係の研究で有名です。
アイヌには山争いの伝説が多く、仲のよい山がけんかして一方が出ていくという似た話がいくつもあります。
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