―シベツのチャシ― エリモンクル伝説

 むかし、むかし、シベツ川の右岸の小高い丘の上に、ホニコイチャシがありました。そのころのシベツ川は、現在のようにまっすぐ海へ流れこむのではなくて、海の近くでぐんと南の方へまがり、海岸線と平行して流れ、現在の望ヶ丘公園近くで海にそそいでいました。ホニコイチャシは望ヶ丘公園付近だったと思われます。
そこは見はらしがよく、シベツ川に秋味(鮭)がのぼってくるのもいちはやくわかり、裏山の方にはギョウジャニンニク、ワラビ、フキ、キノコ、ブドウ、コクワなど山の幸がたくさんあって、ここに住むアイヌにはすばらしい所でした。
しかし、困ったことが一つありました。ホニコイチャシより南方を流れるチャシコツ川のほとりにあるチフルチャシのアイヌとは、むかしから仲が悪く、争いがたえずおこっていました。
 チャシコツ川は野付湾に注いでいますが、下流は舟が行き来し、コイトイ(野付半島の幅がせまく外海が荒れた時は波が川の方までとどく所です)で、砂の上を舟を引いて外海と行き来しました。それでチャシコツ川の川口からコイトイまでの間をチプルー(舟の路)ともいいました。それでチャシコツ川の川口近くにあるチャシを「チフルチャシ」と呼んでいました。
 ホニコイ軍とチフル軍とでは、どちらかといえばチフル軍の方が少し強くて、ホニコイチャシの人たちはくやしい思いをしました。今日もまた争いです。けが人もふえてきました。どちらの軍ぜいも、はやく勝って争いをやめたいと思っていました。
両方の軍の総大将はそれぞれが勝とうとしていろいろな方法を考えて争い、なかなか勝負がつきませんでした。
 ある日、ホニコイチャシにエリモンクルという人が修業にきました。大変知恵があるうえに、力持ちで強い人なので、ホニコイチャシの人はエリモンクルを頼りにし、ホニコイ軍の軍師(はかりごとをめぐらす人)になってもらいました。それからというもの、戦のたびにホニコイ軍は勝ち続けました。
 エリモンクルは、竹で編んだブドウづるの皮をつけた帽子をかぶり、竹で編んだ細縄でつないだよろいを着ていました。そしてその上にホクユクという熊の皮で作ったチョッキを着ました。顔は長いひげをはやし、ひたいには青筋が三本ありました。ふだんはあまりしゃべらず、静かでやさしい目をしていました。しかし、戦になって命令をするときは、虻がひたいにとまって動いているかのように、青筋が動いて、それはそれはこわい顔になりました。
 エリモンクルには大好きなメノコ(女の子)がいました。コエカイマツといって、やさしく、よく気のつく、心も姿も美しい娘でした。
 チフルチャシの大将はトシャムコロといいました。年はおおよそ百四、五十歳ですが、若い人に負けず力持ちで、誰もかないませんでした。その上、とても情深い人だったので、この地方のアイヌ数千人はトシャムコロのいうことをよく聞きました。
 トシャムコロは、チフル川からシュンベツ川(別海町春別)までの総大将でもありました。トシャムコロはノツケ湾内にあるニイショという島の生まれでした。かれには子供がいないので、たくさんの宝物をゆずる人がいません。それで、いつもどうしたものか悩んでいました。また戦いがはじまりました。
 軍師エリモンクルは今までにない計画を考えました。それははだかの女の人に敵の前を走ってもらうというものでした。敵が女の人にみとれて油断しているところを攻めこもうという計略でした。
 エリモンクルは大好きなコエカイマツをときふせました。コエカイマツはいやがり、なかなか承知しませんでしたが、エリモンクルのためにしぶしぶ出かけることにしました。
ある朝、コエカイマツははだかになってチフルチャシの近くを走りました。チフルチャシの見張り番は目ざとくみつけ、みんなに知らせました。
 大さわぎになりました。はだかの女の人を見ようとみんなはチャシのはしの集まり、コエカイマツが走りまわるのを目でおいました。
 チフルの大将トシャムコロはこの日にかぎって朝寝坊をしました。
 「外はうるさいなあ。朝早くから何だろう!」と思いつつ、戦の疲れでまた寝込んでしまいました。みんながはだかの女の人に気をとられて、後方の守りはすきだらけになってしまったのに気がつかなかったのです。
 チフルチャシの人達は軍師エリモンクルの思ったとおりになりました。
ホニコイ軍は軍師エリモンクルの指図で、チフルチヤシの後にまわりました。みんな静かに、すばやく行動しました。
 はだかのコエカイマツに気をとられていたチフルチャシの人たちは、いきなり後ろから攻められて大そうあわてました。もう大混乱です。そして、とうとう負けてしまいました。大将のトシャムコロはくやしながら亡くなりました。
 軍師エリモンクルの名はたちまち有名になりました。トシャムコロの部下もいうことをききます。ホニコイ軍にむかってくる人は誰もいません。コエカイマツもみんなから感謝されました。

チフルチャシ、ホニコイチャシの地方は大そう平和な村になりました。鮭とり、熊狩り、山菜とりにはげみ、生産は豊かになりました。
 トシャムコロが持っていたばく大な宝物は、知らないうちにかくされていて、チフルチャシにはありませんでした。みんなは、ノツケ湾の中にあるキモッペモシリという小さな島にかくされているのにちがいないと噂しました。そして、その宝を探しに行きたいと思いましたが、怨霊をおそれて捜しに行く人はいませんでした。
エリモンクルは、大好きなコエカイマツと結婚しました。そして、幸わせに暮らしたといいます。
 チフルの大将トシャムコロがかくした宝物の行方は、いまだにわかりません。宝物がかくされているとみんなが信じていたキモッペモシリという島は、現在は沈んでしまってみることはできなくなりました。

  • 解説
 エリモンクル伝説について この話は加賀伝蔵が書いた「蝦夷風俗図絵」(市立函館図書館蔵)という本の中の一話です。題名がなかったので、主人公の名をとって「エリモンクル伝説」としました。この書物は九十一枚からなり、その中の八枚にエリモンクル伝説関係の図があります。
 加賀家は秋田県八森にあり、寛政年間から四代にわたって伝蔵を名のり、アイヌ語の通詞(通訳)をしてきた家です。そのいえにはぼう大な文書(加賀文書)が残っています。中でも四代目の伝蔵の書き残したものが最も多いといわれています。
 この話に出てくる地方のホニコイ、チフル、キモッペモシリは、現在の標津町の桜木町の南から浜茶志骨(住吉町、東浜町)、尾岱沼の地域にかけてのものです。この地域は、チャシコツ(チャシ跡)が六基以上もあり、伝説の中のチャシと対比するのは難しいのですが、加賀伝蔵の他の絵にみられる棚、豪、橋、戦の方法、弓矢、投石など、古記事にのせられているものと共通したものがあります。
 現在までこの物語は、伝承されてはおりませんので、貴重な記録といえましょう。
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