―へびの恩返し― 青姫明神

へびの恩返し
 この話は標津町で大正時代に実際にあったできごとと云われています。標津町内でもっとも古くから旅館をしている宮嶋旅館は、大正時代の初めころ、宮嶋源蔵さんが駅逓を引き継ぎました。駅逓というのは旅館の仕事や、旅行者に馬を貸したり、郵便局が出来る前は、郵便物のとりあついもしたところで、標津では明治時代に藤野家や芦沢勇吉さんが取扱人でした。宮嶋さんが旅館をやっていたときも、昔の駅逓の建物は残っていましたが、次第に改造され、ほんの一部が残っていたものの、昭和50年代には全部とりこわされて、そのあとで現在では駐車場になっています。

 大正時代のある夏の日のことでした。宮嶋さんのおばあさん、(もう亡くなられています)は、ご隠居の縁側ににすわって庭をながめていました。庭には赤・黄色・ピンクや白などの色々な花が咲き、花畑のそばの草むらもきれいな緑色です。空はよく晴れ、ときどき海の方からさわやかな風が吹いてきました。

「あれ!あれ!なんでしょう。」縁側の近くの草の中で、何か動いています。カサコソ、カサコソ・・・そこだけ草がゆれて、なにかいるようでした。おばあさんは目をこらしてよく見ました。なんとなんと、へびがいるではありませんか。びくっとしましたが、おばあさんはもう一度よく見ました。それは緑色をした小さい小さいへびでした。
頭をちよっとあげて、ゆっりとおばあさんを見ました。おばあさんは話しかけられているように思いました。青大将といって、毒のないへびの子供でした。

 「おなかがすいているの?」おばあさんは気になって、お米を小さいお皿にいれて草むらにそっとおいてあげました。はじめは近寄ってこなかったへびも、しだいになれてお米をたべるようになりました。おばあさんはうれしくなって、毎日毎日、お米を小さいお皿に入れて草むらにおいてあげました。

「へびさんやおたべ、たくさんたくさんおたべ!」お米をあげることが、おばあさんの楽しみの一つになりました。小さくてかわいかったへびの子どもは、だんだん体が大きくなってきました。
寝ているときに「グー、グー」といびきをかくときもあって、人目につくようになりました。「人に見つからなければいいんだけど・・・、いつまでもこの家にいてくれるといいんだけれど・・・。」おばあさんは心配でたまりません。「そうだわ、おじいさんにたのんで、へびさんのお家を作ってもらいましょう。へびさんにあうかわいいお家がいいわ。」おばあさんは、とってもいいことを思いついたとごきげんで、さっそくおじいさんにわけを話し、かわいい家を作ってくれるようにたのみました。器用なおじいさんは、すぐに板きれを集めてトントントン...。

まもなく、立派なほこらがへびさんの来る所におかれました。おばあさんは、へびさんもきっと喜んでくれると思って、たいそう満足しました。

それから何日もたちました。

 ある晩のことです。おばあさんが寝ていると、美しい着物にはかまをつけて、神様のようなかっこうをしたへびさんが枕元に立ちました。「おばあさん、おいしいお米をいつもありがとう。また立派なほこらを建ててくれてありがとう。とてもうれしかったです。でも、わたしは体が大きくなってほこらが小さくなりました。めいわくをかけるといけないので、わたしは近くの沼に移りますね。おばあさん、ありがとう。」(今の標津小・中学校やグランドのあたりはその昔、沼でした。)

おばあさんはびっくりして声が出ませんでした。ひきとめて家にいてもらいたいと思うのに、声が出ませんでした。

その後、庭でへびを見かけることはありませんでした。おばあさんはがっかりして、縁側でぼんやりしていることが多くなりましたが、ときどきへびさんがもどってきているのではないかとよく庭をみたり、お米をお皿にいれてほこらの前においてやりました。でも、お米を食べるようすはありませんでした。

そして、また何日も何日も、更に何日も何日もたちました。

 大正十年のことです。六月に毎日毎日雨が降り続きました。こんなことはかつてないことでした。あまりたくさん降るので、街の裏通りを流れているアキラ川は水があふれ、道路も水びたしになりました。

そのころ標津小学校は、今の役場の所にありました。道路は水びたしで、学校へは歩いて行けなかったそうです。おばあさんの宮嶋旅館や、へびが移っていった沼のあたりは、舟を利用しなければならないほど水があふれていました。洪水がまだおさまらない夜のことでした。おばあさんの枕元に、かわいがっていたへびさんがまた現れました。前よりもまた大きくなっています。おばあさんは、また声が出ませんでした。「おばあさん、わたしはまた体が大きくなりました。沼がせまくなったので、こんどは海へ行くことにしました。海へ行くために雨をたくさん降らせて、みなさんにすっかりめいわくをかけてしまって悪かったと思います。おばあさん長い間ありがとう。お元気で!さようなら。」

おじいさんとおばあさんは、へびさんが住んでいた「ほこら」を「みどり姫明神」として庭において、ずっと祭っていたのですが、へびさんが海へ行くといったあとは、標津神社に祭ってもらうことにしました。標津神社では、青大将なので青姫と名づけ、魂入れをして神社の神様といっしょに祭りました。

 それから六年たった昭和三年十月のことでした。ある日、それはそれは風の強い日のことでありました。夜になってある家が火事になりました。強い風にあおられて、たちまち火事は広がりました。茶志骨の方からも多ぜいの人がかけつけて、みんなで消そうとしましたがまにあわず、標津市街に百五十六軒あった家のうち、五十三軒が焼けてしまいました。

宮嶋旅館のまわりの家もみんな焼けてしまいました。おじいさんとおばあさんはおそろしい夜をすごしましたが、ふしぎに宮嶋旅館は焼けませんでした。次の日の朝、家のまわりのようすをみていたおじいさんとおばあさんは「あっ、これは!」とおどろきの声をあげました。家のまわりには、大きなへびのはったあとがぐるぐるとついていたのです。

火事のときにへびが家のまわりをまわって火を防いだと、近所でも大評判になりました。

おじいさんとおばあさんは、大へん感謝し、青姫明神のお祭りをずっとかかさなかったということです。

  • 解説
 青姫明神の話は「みどり姫明神」という人もいるようですが、青姫明神の方が言いやすいので題名としました。この話は、故戸田久吉さんから聞いた話をもとにしていますが、標津大火のときの宮嶋旅館の話は、栄町の栗谷川敦子さんから聞いたものです。戸田久吉さんは標津町の茶志骨や野付半島のことにくわしく、「標津ひとむかし」などを書かれています。

 標津大火は、昭和三年十月三十一日午後九時四十分頃におこった火事のことです。雑貨商のランプの火が原因で、折からの強風で、標津市街百五十六戸の約三分の一の五十三戸が焼け、午前一時頃鎮火しました。この時郵便局の人がオーバーを水に浸してかぶり、局が焼けるまで各方面へ連絡をした話は有名です。
 
  • 参考図書
 標津のむかしばなし ふるさとねむろの豆ほんシリーズ3「伝説・海鳴りの彼方に」より 1991年発行 文・本田克代 絵・清水克美
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標津町TEL:0153-82-2131