標津高等学校歴史
1,標津実践女学校の誕生まで
本校の歴史は、昭和9年に発足した、標津実践女学校に始まるのであるが、その発足の
標津町における教育の歴史は、「標津町史」の伝えるところによると文久2年(1862)
から慶応3年(1867)までの6年間、標津の地に会津藩代官兼普請方勘定所勤めとして在住した会津藩士南摩綱紀(羽翁)という、後に東京帝国大学の教授となり、宮中にてご進講を勤めた偉才が、勤務の余暇に付近の村を回り、居住民たちを教化したことに始まるという。しかし、この綱紀の教育は、言うまでもなく本格的な教育活動とは言い難いものであり、文字通りの余暇を利用しての啓蒙の域を出ないものであったと思われる。
この南摩綱紀が標津を去った翌年に明治維新を迎え、明治政府は本道の開拓を重視し、明治2年には開拓使を設置し、明治5年には開拓使の根室出張所は根室支庁と賞することになり、標津も根室支庁の管轄となった。この頃には既に標津にも移住者・居留者がかなりの数となっていた。一方、同じ明治5年には学制が制定され、近代学校教育制度の黎明期を迎えていて、かつての寺子屋が再編される形で全国に小学校が誕生し始まっていた。根室管内では明治9年に管内最初の学校として、官立花咲小学校が開校し、この地域でも徐々に学校教育が行われ出したが、当時標津には学校は勿論、寺子屋さえも無い状態だった。ところが、翌明治10年に根室支庁が管内の学齢人員の調査を行ったことが刺激となり、標津町在住の医師槇宗説が自宅に子女を集めて寺子屋教育を始めた。これが標津町における学校教育の最初とされ、南摩綱紀が教化を始めた文久2年から15年後のことであった。このような経過の後、標津に小学校が開校したのはさらに6年後の明治16年のことであった。
明治16年に管内で3番目の学校として創立された標津小学校は、以後まさに標津町の学校教育の中心の役割を担い、補習科や高等科の併置等幾多の変遷を経て、昭和8年には創立50周年を迎え、盛大に記念式典が挙行された。その当時にはこの地域の生活もかなり安定したものとなっており、毎年の小学校卒業生も四百名近くになっていた。この約四百名の小学校卒業生中、旧制の中学校や実業学校等の上級学校への進学者は男女を合わせて3割にも満たず、大多数の者は十二才〜十四才の年齢で働きに出されたり、家事に従事したりというような状態であった。
このような、現在の中学生位の年齢の小学校卒業生の状況から、彼らに対して補習教育的な機会を与える必要性は早く認識されており、男子卒業生に対しては、後に青年学校と名称の変わる青年訓練所が既に当時の村内各学校におかれて、修養指導と軍事教練とが行われていた。しかし、女子卒業生に対するこのような機関は全くなく、この昭和8年当時の故植松適村長は村財政の関係上やむを得ないこととは言え、このような女子卒業生のおかれていた状況を深く憂い、女子補習教育実現の必要性を痛感していた。一方では、女子卒業生や地域の人々の間でも、何らかの就学の機会を望む声が強くなっていた。
以上のような状況下で、植松村長は意を決し、当時の小学校長佐々木孝、学務委員清水亨治その他の人々と女子補習教育の実現に向けての具体的な相談を行い、有志の人々の賛同も得て、昭和9年3月7日に当時の標津尋常小学校に、標津村立標津実践女学校を併置設置の認可を受けた。その後すぐに開校準備にとりかかり、同年3月31日には小学校長佐々木孝が兼任で初代校長に就任し、4月9日に開校された。
ここに、本校の最前身たる標津実践女学校が誕生したのである。
2 実践女学校から高等女学校へ
昭和9年4月9日に開校した実践女学校は、その正式名称は、後の高等女学校の学事報告記載内容から、公立青年学校標津村立標津実践女学校であったことが知られる。当時の標津尋常高等小学校の校舎の一部を借りての開校であり、施設・設備は当然、教材・教職員の構成その他すべての面で不自由・不十分なものであったろうと推察される。しかし、前述のとおり、長年の懸案事項であった侍史教育の充実への第一歩が踏み出されたことは紛れもない事実であり、当時の関係者の苦労の裏側の喜びも強く感じ取れるものであった。
開校された昭和9年度の、現在知り得る情報は極めて少ないながら、教職員の構成は学校長1名、教諭1名、助教諭1名であったことが記録によって知られる。しかし、正式記録として残ってはいないが、当時の小学校教職員が、兼務その他何らかの形で何人か実践女学校にかかわっていたであろうことが推測される。又、生徒数を見ると、昭和9年度では入学者31名、退学者5名、差引在籍生徒数26名で、その内訳は予科1年9名、予科2年1名、本科1年15名、研究科1名となっている。かくて、昭和10年3月23日に第1回卒業式が行われ、研究科卒業生1名、予科修了生1名を送り出し、終業生は予科1年9名、本科1年15名の24名であった。一方、初年度の授業日数は235日、学校行事等を含めた登校日数は244日で、現在の高校の目安となっている年間35週の授業日数をかなり上回るものであり、年間を通しての平均出席率も90.86%の高率であった。これらの数字を見ただけでも、発足当時の生徒も教職員もいかに熱心であったか、また、その裏付けとして、いかに実践女学校の誕生を待ち望んでいたかが理解されるのである。
第1回の卒業生を出した昭和10年には、小学校校舎の間借り状態を解消し、形態的にも独立した学校とすべく関係者が努力し、小学校校舎に隣接して新校舎の建築が行われることとなった。この工事も順調に進み、遂に11月3日、当時の明治節に竣工式を行い、普通教室2教室の新校舎が出来たということは、現実に新しい学校が出来たという印象を人々に強く与えることとなった。在籍生徒数も初年度の24名から42名に増え、教員数も2名から5名になり、徐々に学校らしい学校となってきた。しかしながら、実践女学校の教育内容はあくまでも女子小学校卒業生に対する補習教育の域を出るものではなかったため、地域経済の安定向上と相俟って、実質的な女子上級教育を行う学校を求める声が高まってきた。地域住民のこのような要望と期待をうけとめた植松村長は、実践女学校を更に充実発展させて、高等女学校令による実科高等女学校に昇格させることを決意し、関係者と共にその実現への努力を続けた。その結果、昭和16年に至って機は熟し、1月に北海道庁を経て文部大臣に設立認可を申請したところ、3月13日に文部大臣より設置を認可されたのであった。
ここに、昭和9年、地域住民の熱い希望と期待を担って誕生した標津実践女学校は7年間にわたるその役割を終えて閉校となり、更なる発展の段階を迎えることとなった。
3 高等女学校の歩み
昭和16年3月13日、文部大臣より高等女学校令による実科高等女学校の設置認可を受けると、実践女学校は直ちに実科高等女学校発足の準備に入った。
まず、校名を北海道標津実科高等女学校と定め、同時に学則が制定された。又、実践女学校最後の卒業式が挙行されて、7年間における合計130名の修了及び卒業生を出し終わって実践女学校が閉校され、3月31日には、実践女学校から引き続き、佐々木孝校長が実科高等女学校校長として発令された。かくて、4月1日に開校式並びに入学式が挙行され、実践女学校からの編入者1名を含めた65人が第1回入学生として入学が許可され、標津実科高等女学校が誕生した。同校は、当時としては文字どおり、北根室に於ける唯一の女子中等教育機関であり、この学校に寄せられた地域住民の期待は、実践女学校に寄せられたそれと勝るとも劣らぬものであったことは言うまでもない。
ところで、実科高等女学校が発足した昭和16年という年は、周知の通り、12月8日に太平洋戦争に突入した年であり、開校した4月にはまだ大戦参加をしていなかったとは言え、既に昭和6年9月の満州事変に始まる15年戦争の最中で、昭和12年には日中戦争が開始され、開校前年の昭和15年には日独伊三国同盟が締結され、大政翼賛会が発足し、開校した16年4月には国民学校令が実施されて、小学校の名称が国民学校に変わるという具合に、実科高等女学校は正に戦時体制下に出発したと言って良い。戦時下にあっては、国民生活は凡ての面にわたって規制を受けざるをえず、学校教育に対しても種々の制約が加えられた。昭和10年度から17年度にかけての、標津実科高等女学校の「親展文書綴」を見ると、昭和16年7月11日付文部次官通達として、「今夏教職員及生徒児童ノ旅行抑制二関スル件」が発せられており、その内容として、時局下鉄道輸送逼迫のため、(一)各種大会、講習会、総会その他の会合を延期又は中止すべきこと、(二)本年度は師範学校、中等学校及国民学校等は総て7月31日まで登校させて授業鍛錬等を行わせること。(三)県外にわたる教職員及生徒児童の団体旅行を中止又は延期すべきことが指示されている。直接的に国民の目にさらされていない所で大戦参加に向けての準備が着々と進行していたことがはっきりと感じ取れるのである。この年度中、それ以後に文部省又は北海道庁等から届いた通達の幾つかをひろってみても次のようなものがある。
「防空勤務員の補佐隊組織に関する件」7月31日付
「学校防護に関する件」8月13日付
「学校報国団の隊組織確立並びに其の活動に関する件」8月20日付
「中等学校最高学年在学者に対する臨時措置に関する件」10月16日付
「中等教員進退の内申に関する件」(17年3月12日付)
このうち、最後の「中等教員進退の云々」の通達は、前年12月8日の米英に対する宣戦布告の意義を述べ、教育が国体維持の根本であり、教職員は一路教育報国に邁進すべきであって、その聖職たるを自覚し、自己の都合によって転退職をすべきでないことと、転退職、転任等に対して厳しい処分を行う旨を述べたものである。このように教育界においても大戦参加への準備、大戦参加、大戦遂行への布石というおおきな時代の流が実感として感じ取られる時期が昭和16年当時であった。
さて、このような時代を背景として、前述のような事情で開校した標津実科高等女学校であったが、不幸な時代の流れの中で幾つかの変革を経験しながら、着々とその基礎固めを行っていた。実践女学校の誕生にも携わり、実科高等女学校の開校も手がけた初代佐々木孝校長は昭和16年5月15日に本務である国民学校校長を辞することとなり、それに先立って5月9日に実科高等女学校を依願退職された。5月15日には、後任として標津国民学校校長となった佐藤福右衛門氏が第2代校長として兼任発令された。佐々木校長を引き継いだ佐藤校長も前任者に劣らぬ情熱をもって学校の充実に努力し、9月25日には当時の金で1万7千87円24銭をかけて建坪114坪2合5勺(約377.7平方メートル)の校舎の増設工事を竣工させ、11月29日には作法室、被服室、割烹室、洗濯室、職員室並びに便所の増築を完工し、その落成式を挙行した。それは、まさに開戦前夜のことであったが、何はともあれ、学校としての体裁も整い、発足初年度にして、普通教室以外に特別教室を持った近代的設備の学校となったのである。この年度の教員数は7名、翌17年度には9名となり、在籍生徒数も1,2年同型で98名となった。
かくて、昭和18年3月24日に第1回卒業式を挙行し、57名の卒業生を送り出すこととなった。この第1回卒業生の進路状況を見ると約半数の26名は家事従事希望、教員、保母、事務員への就職希望者が17名、残り14名が専門学校、師範、各種養成所等への進学、入所希望であった。
この第1回卒業式が挙行された昭和18年3月24日に先立つこと2か月の1月20日、勅令第36号及び文部省令第3条の中等学校令が施行されたため、新年度の4月1日を期して北海道標津実科高等女学校の名称を、北海道標津高等女学校と改称し、学則の改正を行った。俗に「標津高女」と呼ばれる高等女学校の名称となったのであるが、現在では「高女」の略称は必ずしもこの高等女学校のみを指すものではなく、これ以前の実践女学校、実科高等女学校、これ以後の高等家政学校の総称として用いられている。
昭和18年度においても、施設、設備の充実は進められ、7月15日には250坪(約836.4平方メートル)の行程の地均しが完了し、同時に校門が設立された。7月20日には校旗樹立式が挙行されたことが記録に残っているが残念ながらその校旗の所在は現在不明である。なお、校章についての記録は特に残っていないが、実科高等女学校当時に制定され、桜の花の中央に「標女」と文字の入ったものであった。しかし、これも現在実物はなく、写真によってその存在が知られる程度である。更に同年8月31日には割烹室
(家事室)と洗濯室の設備が2千2百円で竣工した。
かくて、昭和19年9月18日には、名称変更はあったが、高等女学校としての第2階卒業式が挙行された。この年の卒業生は35名で、その進路状況は第1回卒業生と大差ないものであったが、戦時下であることを反映して、女子勤労挺身隊入隊者34名となっている。戦争は現実のこととして、否応なしに標津高等女学校にもその影響を及ぼしていたのであり、事実、この昭和18年に日本軍はガダルカナル島からの撤退を開始し、アッツ島で玉砕している。12月には第1回の学徒出陣が行われ、戦争はもはや抜き差しならない段階に達していた。
この頃から終戦までの間は、日本は文字どおり非常事態であり、学校では授業は二の次となって、援農や勤労動員にかり出され、出征兵士の見送りや長刀などの教練に時間が費やされるという状態であった。
終戦を迎える昭和20年の3月27日には第3回の卒業式が挙行されたが、卒業生は45名で、その進路は第2回の卒業生と大差ないものであった。又、在校生はそれまでと変わりなく、相変わらず日本の勝利を信じて国のために身を挺して働いていた。昭和20年8月15日の終戦を告げる玉音放送は、ほとんどの生徒が援農や勤労動員で働いていた場所で聞いている。これをきっかけとして、学校生活がすぐに正常化されるという訳ではなく、今度は終戦後の混乱期へと突入することとなった。それを反映して昭和21年3月20日に挙行された第4回卒業式では、49名の卒業生を送り出したが、そのうち実に43名が家事従事となっている。
昭和21年4月1日からは、それまでの2年制から3年制へと移行することとなった。そのため、昭和21年度には卒業式は行われず、昭和22年3月31日現在での第2学年44名はそのまま新たに第3学年へと進級することになった。明けて昭和23年3月には3年制女学校として最初の卒業生を送り出したが、新3年に進級した44名はこの時には32名に減少しており、うち24名が家事に従事し、残り8名が就職したり裁縫の実習生になったりしている。
一方、既に昭和22年には教育基本法、学校教育法が公布され、同年の4月からは俗に言う新制となって、6・3制が実施されていた。22年4月の3年制への移行は、当然の事ながら、これを受けての処置であったが、高等女学校そのものが旧制度による学校であることには変わりなく、小学校卒業生は当然のこととして昭和22年5月に開校した、新制中学校へと進学することになっていた。そのため、昭和23年度において将来の廃校を見込し、新入生の入学は行われず昭和24年3月の卒業式では36名の卒業生を出し、残り在校生は4月から3年生となる35名のみとなった。
この大幅な教育制度の改革の中で、標津高等女学校は既に存在価値を失いつつあったと言わざるを得ないのであるが、そのような中で、昭和24年、伝統ある女学校の命脈を保たんがため、1月5日に標津高等家政学校の認可を受け、4月1日に学則を制定して、4月7日に新入生22名を迎え、開校式並びに入学式を挙行した。その際、高等女学校の2年生35名中31名が新3年生としてそのまま最後の旧制女学校生徒として残ることとなり、翌昭和25年3月21日に卒業式が挙行され、その31名が卒業して標津高等女学校は終焉を迎えたのであった。同年4月1日には新制高校である中標津高等学校の標津分校(定時制)が同じ校舎の中に認可設置され、翌26年3月17日には高等家政学校の第1回卒業式が挙行され、20名の卒業生を送り出したのであるが、この年の3月31日には標津高等学校(定時制)の設置認可にともなって標津高等家政学校は廃校になったのである。又、4月1日には中標津高等学校標津分校も廃校となり、以後は家政学校の在校生とその施設、設備を受け継いだ標津高等学校の歴史へと発展していくことになるのである。
昭和9年、標津実践女学校として発足以来、標津実科高等女学校、標津高等女学校、標津高等家政学校と続いた女学校の歴史は、足かけ18年をもって終わりを告げたわけであるが、その17年間に果たした役割は大なるものがあり、特に北根室の女子教育はこれ抜きに語ることはできず、その建学の精神は、今や母となり祖母となっている卒業生の中に今も生き続けており、又、現標津高等学校の精神的支柱ともなっているのである。
第2章
1 中標津高等学校標津分校の発足
昭和9年から17年間の女学校時代の歴史は第1章に述べられたとおりで、昭和25年5月2日に開校された中標津高等学校標津分校の発足が本校の新制高校の出発点とされ、現在もこの5月2日が開校記念日となっているのである。しかしながら、この分校開校にはその裏に複雑な事情があり、単純に先発の高等学校であった中標津高等学校が標津に分校を設けたというような事情ではなかった。本校の中標津高校分校時代は本校の中標津高校分校時代は、わずかに昭和25年度の1年間であるが、この変則的な状況もその発足の事情によっている。以下、中標津高校標津分校開校のいきさつとその前後の事情について若干の説明を加えることとしたい。
標津町と中標津町との関係は、漁業を中心として早くから開拓されていた現標津町と、現中標津町を併せた標津村から、農業を中心として開拓された中標津地区が昭和21年に分村したというものである。中標津地方の標津村からの分離は、長い期間の懸案であり、中標津村誕生までには幾多の波乱を経ている。昭和3年2月27日の村会に、村の現況から見て、役場庁舎の位置が東に偏りすぎていることを理由に、「役場庁舎移転に関する建議案」が提出されたが、このとき植松村長は時期尚早と答弁している。昭和6年には村内二つの産業組合の取扱区域を定めたが、これが現在の町界とほぼ一致している。元来、海岸地域と内陸とでは産業構造も異なり、その上、海岸地域に対して移住入植者によって開拓された内陸の住民の中には、いつまでも後進地域として支配されていることに飽き足らない感情があり、内陸の人口増加と国鉄標津線の開通は、その感情を更に強めることとなった。実践女学校が発足した昭和9年11月の村会には分村の準備調査実施を望む建議案が提出され、昭和11年2月の村会には役場庁舎を中標津に移転する案が提出された。一方、計根別地区には独自の分村計画もあり、昭和14年10月には改めて役場庁舎の中標津市街地内への移転を望む建議案が提出されたが、長時間の討論の末に可否同数となり、議長はこれを保留とし、村長発言後の再度の採択も可否同数保留となった。中標津選出の議員は激昂し、8日後の10月19日に中標津市街地村民大会を開き、地区住民は一切の公職を返上し、役場への不協力を声明した。このような経過後、終戦をはさんで昭和21年の村議会で分村及び、その準備が決定され、7月1日に中標津村が誕生した。
この後、中標津村は積極的に村の基盤造りを行い、昭和23年には村立の新制高校たる中標津高等学校を発足させ、翌24年には道立移管を実現させ、全日制、定時制の両課程をもち、これを本校として地域内の高校教育振興のため、計根別、西別、標津等に分校(定時制)を開くこととした。
一方、両村の前述のとおりの関係と、既設の高等家政学校を有していたという事情から、標津村当局としては新制高等学校の必要性は認めながらも、中標津高校の標津分校開校を中標津高校の計画の一環として単純に受け入れることはできなかった。特に新制高校の制度が現実に発足している状況下で、高等家政学校及びその生徒をどうするか、村内に新制高校が絶対的に必要であることは自明のことであるが、どのような形で新制高校を設置するか、という2点の大問題を抱えているのであり、又、この2点は不可分の要素を持つということも大きな悩みであった。
これらの問題点の上に立って、昭和25年4月の村議会で中標津高等学校の分校として定時制高等学校を設立することが決議された。しかし、この議決には次のような含みがあった。
(1)中標津高等学校の分校設置という形は、あくまでも便宜上、過渡的なものであること。
(2)分校という形はとるものの、その運営は実質的には標津村立の高校とすること。
(3)近い将来に於いて、村立の独立の高等学校を発足させること。
(4)高等家政学校の生徒は、実質的には新制高校生として取り込んでしまうこと。
このような含みをもっての設立であったから、同じように中標津高等学校の分校であった計根別や西別の分校とは、その性格において決定的に異なっていた。(1)〜(4)までの含みは、それぞれ次のような事情によったり、具体的な表れとなったりしたのである。以下、項目毎に説明することとしたい。
(1) 標津村の事情とは無関係に、中標津では分村翌年の昭和22年から新制高校設置の陳情を開始した。この設置については、分村独立後間もなく、村の財政基盤からも問題が多く、村内に賛否両論があったが、設置に対する公聴会や設置の賛否を問う形となった村長選挙等を経て、昭和23年6月に認可を受け8月3日に開校式を行い、全日制普通科の村立高校が発足した。この設置への働きかけの頃から、定時制の併置も働きかけられており、その理由としては、内陸部の発展の可能性、釧路・根室への子弟の流出、中標津の地理的条件の良さ、広大な地域にわたる勤労青少年への教育の必要性等をあげ、定時制課程及び分校設置を請願していた。その結果、全日制発足と同(2)
年の10月10日に定時制課程の設置が認可された。翌24年には道立に移管し、中標津高校としては分校の開設は既定方針として実現しやすい環境下にあった。一方標津村としては、前述のとおり高等家政学校とのかねあいから、すぐに独立の高校設置にはふみ切(3)
れない事情にあった。そこで、便宜上、分校の形を借りて、実質上村立高校にしようという案となったのである。よって、中標津高等学校標津分校は、前述のとおり便宜上、過渡的処置とみなされ、そのため、分校当時の校長たる中標津高等学校長米良四郎氏は標津高等学校歴代校長としては数えていないのである。言うなれば、標津高等学校としての本流はあくまでも高等家政学校であり、分校は単に校舎を貸しただけであるという解釈に立っているわけである。
(4) 中標津高等学校の各分校は、本校教諭が分校主任として着任して開校という形をとっているが、標津分校だけは昭和25年4月18日に標津村長の指(5)
定によって、標津小学校の菊池義夫教諭が分校創設事務にあたった。又、発足後のほかの教員としては、後述の昼間、夜間合わせて15名(6) の講師が在職し、そのほとんどは、標津高等家政学校、標津小学校、標津中学校の教員で、中標津高等学校からは夜間に2名(7)
の教諭が通って来ていたに過ぎなかった。かつ、昼間の教員の給与は村費から支出されていた。このようにその運営の実態は、ほぼ、標津村立高校と言っても良いような状態だったのである。
(8) 分校時代の1年間を利用して、標津村当局は実質的に高等家政学校を新制高等学校化してしまい、翌昭和26年には独立の標津高等学校を誕生させたのである。
(9) 標津村に独立の新制高校を創設する上で最大のネックとなっていたのは、標津高等家政学校の存在であったといえる。この問題解決のため、村当局は次のような便法を用いた。すなわち、分校では4月25日に選抜試験を実施し、27日に23名(10)
の合格者を発表し、5月2日に開校式並びに入学式を挙行して6日からは授業を開始していた。この間、昼間には同(11) じ校舎で高等家政学校の授業も並行して行われていた。高等家政学校の教育の目標は、あくまでも良き主婦となるべき女性を育成することであり、その教育内容も裁縫、家政を主としていた。しかし、新時代の女性は;良き主婦として料理、裁縫ができれば良いという程度の考えではだめで、もっと廣く教養を身につけた女性とならなければならないということも既に当時の常識となっていた。そこで、当時の尾崎村長は佐藤高等家政学校長と相談し、生徒及び父兄の賛同(12)
を得て、5月10日に第2次募集を行い、希(13) 望しなかった2名(14) を除く高等家政学校の生徒全員を新制高等学校(分校)の生徒とし、夜間の普通課程に対し、昼間の被服(15)
科コース2学級として新たに学級を編成した。便法とは言え、かなり強引な方法でもあった。当然の事ながら、分校として許されていたのは、夜間の1学級のみであったから、昼間2学級に要する経費は全額村費で負担された。しかし、この強引とも言える方法によって、高等家政学校の生徒は同(16)
時に2校に籍を有することとなり、家政学校の研究科だけで充分という者に対しては、新制定時制高校の3年修了の単位証明を得られるという具合になったのである。さて、このような特殊事情の下で中標津高等学校標津分校としての1年が経過するのあるが、この年度の教育課程は次の通りであった。
中標津高等学校標津分校の発足の事情は、本校の裏面史的な要素があり、ともすれば曖昧にされていたことでもある。しかし、このことを抜きにしては、実践女学校→実科高等女学校→高等女学校→高等家政学校→標津高校という本校歴史の本流は明らかとはならない。紙数を費やして詳述した所以も又ここにある。当時の標津村民、村当局、家政学校関係者達の教育への理解と情熱、プライドと苦悩をひしひしと感じざるを得ない。
ともあれ、変則的な1年の後、標津村には待望の独立の高等学校が発足し、分校在校生の一部は新設高校に移籍し、又、一部の生徒は高等家政学校卒業生として学窓を巣立っていったのである。
2 村立標津高等学校(定時制)
昭和25年、中標津高等学校標津分校発足当時からの標津村当局及び関係者の含みとなっていた独立の新制高校設置は、翌26年に実現することとなった。それにともなって、3月31日には本校の本流である標津高等家政学校が正式に廃校となり、まだ開校式は行われていなかったが、4月1日から村立の北海道標津高等学校が法制上で発足し、同時に中標津高等学校標津分校は廃止された。
ここに至るまでの当時の関係者各位のご苦労は想像するに余りあるが、昭和9年に北根室で唯一の女子教育機関の灯をかかげ、中等教育における先駆的役割を果たしてきたという自信と誇りが各位の原動力になっていたことは否定し難い事実と思われる。高等家政学校の分校への取り込みに見られたように、一見、強引と思われる方法を用いつつ、尾崎村長や佐藤校長を中心に、今となって振り返ると、非常な用意周到さで標津高等学校を発足させたことは驚嘆にあたいする。
標津高等学校の出発に向けては、旧高等家政学校のスタッフを中心にして、志願者の面接等、着々と準備が進められていた。かくして、未だ校長も発令となっていなかった4月8日の日曜日、午前10時から開校式並びに入学式が挙行された。この日入学した新入生は、昼間の被服科19名、夜間の普通科9名、普通科2年へ1名の29名であった。こぢんまりとした式典ではあったが、村長代理の佐分利収入役、小野課長、桜田警察署長、武田裁判所判事、山下中学校長等の来賓や関係者多数が参列し、開校に対する村をあげての喜びを表すと共に、前途の発展を祈った。
かくして、北海道標津高等学校(村立・定時制)は誕生したが、一年間の分校時代を経験しているとは言え、新制高等学校に対する認識もまだ浅く、校長も未赴任という状態であったから、その出発は必ずしも順調とは言えないものであった。この年の教務日誌の4月12日の頁には「寒気厳しく、風強し」と記載されているが、学校の置かれている状況もそのとおりであった。特に、発足当時の先生方は新制高校での勤務の経験は無かったと言って良く、あるいは、家政学校から引き続き勤務された方であり、あるいは新任の方であった上に、すべての面で頼りとし、支柱とすべき校長がいなかったから、その内面での不安は大きかったろうと思われる。そのような中で、5月1日付をもって標津高等学校初代校長として山本武氏が発令された。
初代山本校長は、その在任期間実に10年の長きにわたり、この間にあって標津高等学校の基礎を確立された、本校の歴史上特筆すべき大恩人であると言って良い。そのひたむきな教育への情熱、生徒への愛情は、旧職員諸氏や卒業生各位の回想の中に述べられているので、参照されたいが、昭和45年刊行の本校の「二十周年史」に寄せられた木内先生の回想の中にも述べられているとおり、在任期間のほとんどを通じて教務主任や定時制主事を置かず、ある時期には自らその任にあたり、担任をもち、専門外の教科も担当されるという具合で、木内先生の述べられている言葉を借りると「朝出勤すると定時制の授業が終わるまで、文字どおり家庭、寝食を顧みるいとまもない、学校の教育条件や環境の整備改善に打ち込んでおられた。」校長であった。
5月1日に発令された山本校長は、5月4日、標津に着任した。翌5日は子供の日、6日は日曜日と学校は連休であったが、旅の疲れを癒す暇もなく、5日・6日と出勤し、他の教員も平常勤務体制をとって事務処理を行った。翌7日の月曜日には朝会を行い、高等学校の教育内容等について生徒、教職員に説明を行った。このような校長の着任は、生徒・教職員にとっては勿論、標津町にとっても非常に心強いことであったと思われる。
この後、山本校長は、前述のような姿勢で学校のあらゆる面の整備充実に着手し始めると同時に、将来を見通しての学校の在り方についても種々考慮され、定時制高校のままでは近い将来において必ずや行き詰まることになるという結論を得るに至った。そこで、山本校長は、開校初年度であり、村の財政にもそのゆとりは無いということを承知の上で尾崎村長に自己の信ずるところを率直に述べることにした。定時制ながらもやっとのことで開校した高校であり、おまけに発足して半年足らずという状況下で、更に全日制の設置をなどと言い出すことは無謀と言えば言えないことではなかったかも知れない。しかし、山本校長の言葉は、尾崎村長の心を強くゆり動かした。地域に於ける教育の先進地の誇りを持って設置した高校の将来がそんなにもあやういものであり、下手をすると数年を経ずに廃校、などというのでは正に「仏作って魂入れず」ということで、村長としても、何をおいてもまずその対策を講ずる必要があるという結論に達しざるを得なかった。その決意に基づき尾崎村長は町内の関係者を説得し、強力な政治的リーダーシップをもって、昭和27年度からの全日制募集を認可決定せしめたのである。
一方、校内外の組織も整備された。生徒会については、分校主任であった菊池義夫氏が残された貴重な資料である「標津分校一覧」によると昭和25年の分校当時既に生徒会の組織はできており、1万5千円の予算をもって、生徒会長−中央委員会の下に、自治部、学芸部、体育部の三部が設けられていたことが知られる。その活動概況には「未だ幼稚ではあるが、真剣にやっている。生徒中に年齢多く、常識の発達した者がいてよくリードしている。」等と記されている。この生徒会も標津高等学校となって、改めて再発足し、初代の会長に田中俊男(定時2回卒)、菊池茂巳(定時1回卒)、木村慶子(定時2回卒)、の各君が選出された。また、PTAの組織に関しても、既に旧制時代からこれに類する組織はあったであろうが、この年に標津高等学校の初代PTA会長として渡辺貞雄氏が就任したのであった。
3 全日制の発足から2学級募集へ
尾崎村長の決断力と政治力とによって、昭和27年、全日制課程普通科の生徒募集が開始され、これによって本校の新制高校としての基盤は固まり、この後の発展へと向かうことになった。中標津高等学校の分校開校後わずか2年の大飛躍であった。
この年、4月1日には始業式が行われ、翌日の入学式のための式場準備も行われた。明けて4月2日、晴天に恵まれて全日制第1回の入学式が挙行された。新入生は期待と希望に胸をふくらませ、列席した関係者一同の胸中には、本格的な高校の出発に感慨一入のものがあったであおう。当時は小学区性で、通学区域は標津、羅臼の両村と別海村の春別及び尾岱沼であった。
しかし、生徒も関係者も胸をふくらませての出発ではあったが、正直なところ、学校は「無いもの尽くし」の状態であった。校舎は勿論、施設、設備のすべてが不足しており、あり余るのは先生方の情熱と元気だけと言って良かった。最も、昭和27年という年を考えれば、終戦後まだ10年を経ず、前年の26年サンフランシスコ平和条約が調印され、わが国が国際社会に復帰したとは言え、国内生活はまだ終戦の痛手から立ち直ってはおらず、国民はすべて窮乏生活に耐えていた時期であるから、学校の設備を、などと言っても簡単に手に入れられるような状態でもなかった。とは言え、体育館も何もなく、体育の授業もできないというような惨状であったから、これを放置しておくこともできず、何とかできる所から徐々に改善していかなければならなかった。たまたまこの年の4月に隣接し、渡り廊下でつながっていた標津小学校が新校舎に移転したので、この校舎を高校が譲り受けこれを活用するための増改築−とは言っても補習的なものではあったが−の工事が行われ、7月31日竣工し、校長室、職員室、教室、講堂、小使室、便所の改修を終えた。これと並行して7月28日に学期末考査を終え、翌29日からは生徒・教職員全員で校内外の整備を行った。男子は校庭の草刈や整地を、女子は校内の清掃を行い、朝9時から午後2時まで作業が行われた。翌31日は全員で校庭整地が続けられ、8月1日は雨天であったので急遽校内作業に切り換えられ、職員室や教室の移転を完了した。この日には村内の有志多数が学校を訪れ、新装なった校内を視察した。8月2日は曇天で、午前中校庭整地が続けられて第1回の作業を完了し、午後には終業式を行って1学期をしめくくった。このような作業は次年度以降も続けられ、生徒も教職員も「産みの苦しみ」を味わう時期が続くのである。
この年には、全日制の発足にともない、校内各組織の改編もあった。新PTA会長には菅原光英氏が就任したが、氏は全日制発足決定の段階から本校にかかわっておられ、就任後は山本校長と協力して本校の教育環境整備に尽力された。別稿の矢吹弘照氏の人柄を伝えるエピソードが紹介されているが、特に体育館建設に関しては文字通り献身的な努力をされた。
生徒会の組織も全日制課程中心に改められた。4月28日の朝会において、山本校長は講和条約発効記念日の意義について訓話を行い、この日の放課後には職員会議を行って生徒会会則の審議を行った。かくて、5月27日に生徒会の役員選挙が行われ、全日制最初の生徒会長として川北の森本忠男君が選出された。
昭和28年3月13日には定時制第1回の卒業式が挙行された。卒業生わずか3名の卒業式ではあったが、本校にとっては新制高校として最初に行った記念すべき卒業式である。前日の12日に大掃除、式場準備、そして式の予行演習も終えていたが、当日は全日制を臨時休校とし、全職員が出勤して午後6時からの挙式に備えた。式には村長、村教育委員会委員、PTA役員は勿論、25年5月2日自ら分校の開校式並びに入学式を行った、中標津高等学校の米良四郎校長も臨席された。米良氏はこの4か月後に伊達高等学校に転任され中標津を去ることになるのであるが、氏にとってもこの卒業式は感慨深いものであったと拝察される。
全日制発足2年目の昭和28年度は、4月8日の始業式から活動を開始する。この日は、始業式と新任教員の紹介後入学式の準備が行われ、翌9日には入学式の職員の役割分担を決定した。4月10日金曜日午前10時より入学式が挙行され、全日制第2回、定時制第4回の入学式を迎えた。式終了後11時50分からは、PTA総会が行われ、午後2時過ぎまで熱心な話し合いが行われた。翌11日土曜日には対面式が行われ、全日制の生徒にとっては初めて先輩、後輩の関係が生じた。新入生にとっては恐ろしい先輩との対面式であり、2年生にとっては初めて経験する上級生、下級生の関係であった。
この年には高等学校らしさが徐々に作り上げられていった。4月以降数度にわたって道教委の村上指導主事の学校訪問があり、公開授業後に授業指導についての指導、討議が行われた。6月15日から16日にかけて、2年生は川北温泉に初めて1泊2日の旅行を行っている。今流の言い方をすれば、宿泊研修ということになるのであろうが、当時の生徒や職員の回想をみると、しごくのんびりとした旅行であったらしく、夜はトランプ、碁に興じたと記されている。生徒の中では麻雀に興じたという記憶があるというが、これは、先生の目を盗んでのことであったろうか。6月21日には柔道部が本校で初めて、中標津高校で行われた高体連の柔道大会に参加しており、前日の20日にはそのための壮行会も行われている。
この年10月15日、学校のシンボルである校章と校歌が制定された。校章は生徒会役員によって作られ、3枚の羽根は白鳥の純白な羽根を象ったもので清廉潔白を象徴し、3枚はそれぞれ知・徳・体を表す。すっきりとした校章で、そのデザインの意義づけもまことに立派なもので昭和29年2月25日発行の「標津高校新聞」創刊号にもそのことが誇らかに説明されている。しかし、これには後日談がある。既に「20周年史」にも座談会の中で説明されているが、当時生徒会指導担当のU教諭がたまたま同志社大学の出身で、多分、校章のデザインに悩んだ結果であろう、自分の母校のマークをそのまま生徒会役員に示唆したらしい。そのため、形としては同志社と全く同じ校章ができたのである。それだからと言って、校章の意図するところが薄れるということにはならないことは勿論である。
校歌制定のいきさつについては、今回特にお願いをして、作詞者の矢吹弘照氏に当時の回想録を執筆していただいたので参照していただきたいが、その中にもふれられている通り、PTA、特に会長の菅原氏が中心となって推進された。前出の「標津高校新聞」創刊号の中にも「校歌に於いては、PTAより万余の費用を支出、すでにその発表は標津村文化祭に於いてなされた」と記されている。今となっては残念ながら、作詞及び作曲の完成日が何日であったのか、作詞者の矢吹氏ご自身の御記憶にもなく不明であるが、昭和28年度の「学校日誌」によると、10月5日より校歌練習開始となっているので、それ以前に完成していたことは間違いない。この時の練習は、新聞の引用にも述べられている通り、10月24日、25日の土・日曜日2日間行われた村の公民館主催の文化祭に高校も協力出演したが、その一環として校歌発表を行うための準備のものとしてであった。とにかく、矢吹氏の、標津の風土と本校の校風をふまえて本校の未来と生徒への限りない希望と、わが国の文化国家としての発展、それに参画する人材の輩出せんことの祈りを込めた詞と、現在もキングレコード専属の作曲家として御活躍中の飯田三郎氏のすばらしい作曲とによって、本校関係者以外の方々からも「校歌としてこんなに素晴らしいものは…」とまで評価されている標津高等学校校歌が完成したのであった。
なお、本校応援歌については、その作詞、作曲者名、作られた時期等全く不明である。ただ、全日制第1回卒業生の後藤一郎氏は「20周年史」の座談会の中で、「僕らのころも応援歌がありましたが、作ったという記憶がないんです。当時先生がどこかで歌っているメロディーを書いて、それに歌詞をつけたというわけです。」と述べておられる。多分、これが応援歌の作られた真相であろうと思われるが、であるとすれば、作曲というべきか編曲というべきか迷うが、作ったのは当時本校に在籍していた教職員の誰かであり、その作られた時期は、前述の6月20日の柔道の高体連出場選手の壮行会に向けてと思われるが、6月17日付の「学校日誌」に「応援歌練習」とあり、記録としてはこれが応援歌という言葉がでてきた最初であることも考えあわせて、大体この頃であったろうと思われる。後藤氏の発言内容と考えあわせると、本校始まって以来初めて高体連に出場し、壮行会を行うというので、どの先生かが「校歌もないのだからせめて応援歌位なければ壮行会の格好がつかない。」と考えて、校歌とは違いあくまでも応援歌なのだからという気持ちも手伝って、間に合わせの応援歌を作り上げたものかと思われる。とすれば、作ったご当人も、まさか、現在まで歌い継がれようとは思ってもいなかったのではなかろうか。
年が明けて、昭和29年に入り、かねてからの懸案事項の一つであった定時制教育振興会の発足が具体化し始めた。定時制教育関係者の間では早くから定時制教育振興の必要性が認識されており、山本校長も朝会など機会ある毎に、生徒や教職員に対して定時制教育の重要性を説き続けていた。特に全日制が発足したことから、志願者確保の困難性は十分に予想され、村教育委員会は関係各方面と協議を重ね、その結果、標津高等学校定時制教育振興会を設立することとなった。2月2日、公民館で準備委員会が行われ、5日には総会が開催されて正式発足を見た。会長には近藤政五郎氏が選任され、会員数は70名を超えた。引き続き、8日には公民館で振興会の理事会が開催されて、会の運営等について話し合われた。この振興会の発足は、定時制に学ぶ生徒や関係者に大きな力を与えたのであった。
昭和28年度もおしせまり、3月7日には定時制第2回の卒業式を挙行し、19日には終業式を行って年度をしめくくったが、この後にまだ大きな行事が残っていた。それは、本校で第1回目の本格的な修学旅行の実施であった。本校の歴史の中では、既に実践女学校当時から、阿寒や川湯への修学旅行が行われており、戦時下においては、靖国神社への参拝、清掃奉仕、皇居参拝なども行われていた。しかし、本来の意味における道外への修学旅行はこの時のものが最初であった。旅行団は44名で、3月23日9時50分に標津を出発、裏日本を通って大阪に着き、京都−奈良−伊勢−鎌倉−江ノ島−東京−日光と見
旅行であった。この、春期実施の修学旅行は翌年度以降も続き、昭和33年度から、秋期に実施されるようになった。
昭和29年度は、4月の入学式、PTA総会、12日の対面式と順調にすべり出し、全日制課程には初めて3学年がそろうことになった。この年度にも種々の出来事があったが、何といっても特筆すべきことは屋内体育館の建設が具体化したことである。
体育館の必要性は、生徒は勿論、関係者全員の認めるところであり、既に新制開講当時からそのことは考えられていた。特に冬の期間が長く屋外を使用できる期間が極端に短い当地方の実情から、それはせっぱつまった問題でもあった。2教室分の広さの部屋を講堂と称して有していたが、それは正に名前だけのもので、基礎は弱り、床はぶよぶよで、生徒が飛びはねると床に穴があくという状態で、年間を通して体育の授業もまともにできないという事情があった。又、それでなくとも動き盛りの高校生のことであるから、毎日狭い校舎に閉じこめられて、満足に体を動かす機会も場所もない、ということは肉体的な健康面だけでなく、精神衛生上の見地からも問題であった。父兄側の声としても、菅原氏の回想を引用すると、「大きな動き盛りの生徒は、動き場所がない。古ぼけた教室の中で動きまわる、ほこりだらけの教室で弁当を食べることは衛生的でない。秋深む頃になると教室では戸外より寒いと、校舎の屋根に上がり、すずめの子が電線に並ぶように、校舎の屋根に上がって5人、10人と並びながら弁当をつついていた。こんな情景を見るに忍びなかった。」のであった。更には、将来における道立移管の問題があった。道立移管のためには、施設、設備面で基準を満たすことが最低条件であり、体育館もないなどということになれば、これは問題外のこととなってしまう。そのことは当然関係者の心にあったことであり、そのための下準備も内々で行われていた。具体的な動きとしても、この年の10月14日には、中標津高等学校長とともに道教委の事務官が道立移管の下調査のために来校している。
以上のような状況に於いて、前年度の昭和29年2月6日に午後1時30分からPTAを開催し、屋体建設促進のための話し合いが行われた。特に4月からは全日制が3学年ともそろうという事情もあって、緊急の問題であった。勿論、この問題がこの日突然話し合われたのではなく、既に前年11月から、羅臼、川北、標津、尾岱沼の各支部に於いてPTAが開催されてこの問題が話し合われていた。村当局、学校、PTAなどの関係者であらかじめ予定されていた構想は、建坪総数120坪、間口11間、奥行き12間で工費300万円というものであった。当時の村の財政状況では、村費からの300万円の支出は不可能であり、その資金の調達をどうするか、ということが最大の課題であった。そこで、菅原PTA会長を中心にして考えられた方法が貯蓄組合設立というものであった。これは、PTA会員を組合員として貯蓄組合を設立し、組合員が3年間積み立てを行い、その資金を順次組合の積立金として拓銀の定期預金に加入し、これの見返りとして村が拓銀から融資を受け、それを資金として体育館を建設するというものであった。PTAの席上、この方針が了承されると、4月からはそのための具体的な行動が始まった。菅原PTA会長、太田卯蔵体育館建築貯蓄組合長、山本校長をはじめ、教職員や組合役員が手分けして各支部を回り、説明をし、更に1軒1軒を回って協力を依頼する一方、夜間に村長宅に役員が集まって状況分析や見通しを語り合うという具合で、大変な苦労であった。この苦労は翌年まで続くのであるが、その苦労が実って、会員の積極的な協力を受け、北洋相互銀行を窓口としての積み立ても開始され、資金調達に明るい見通しが開けたのである。
資金調達への努力と並行して、村当局を中心に建築計画の検討も着々と進行していた。11月2日には村役場で村長、校長、教育委員会、PTA会長の四者で、屋体建設設計に関しての最終的な打ち合わせが行われ、総坪数135坪、総工費350万円で、11月12日基礎工事着工を決定した。11月11日には建設敷地の実測が行われて、12日に予定通り基礎工事に着工し、年内に工事を終えた。かくて、懸案の屋体新築は翌年の本体工事着工を待つのみとなった。
このようにして迎えた昭和30年の2月20日、定時制第3回に合わせて、いよいよ全日制第1回の卒業生が送り出されることとなった。2月17日に3年生の及落判定会議が行われ、18日には式予行が行われたが、式場の整備は19日に講堂が村長選挙の開票場として使用されるため、開票業務が終わってから行うこととなった。20日は風雪のあいにくの天候ではあったが、午前10時より卒業式が挙行され、定時制の9名の卒業生とともに、全日制第1回卒業生35名が学舎を巣立ったのであった。
この後、2月24日には、現在の入学者選抜試験に相当する中3テストのため、全教員が各中学校に派遣され、引き続き入学者選抜の業務を続行する中、3月2日に修学旅行団が出発し、14日には全員無事帰校して実質的に昭和29年度の全予定を終えたのであった。
昭和30年度は4月10日に入学式が挙行されて新入生を迎えた。この年度の学校最大の注目事は、何と言っても前年基礎工事を終えた体育館の完成にあった。体育館の工事の付属工事として、校舎の一部を若干手直し補修する計画もあり、生徒はこの工事の完成を待ちわびていた。昭和30年2月18日発行の「標津高校新聞」第2号では、「屋体完成6月か」という見出しで、屋体完成に寄せる期待が述べられている。しかし、資金面その他の都合で、工事は生徒達が期待しているほどすんなりとはいかなかった。村長を中心とする村当局や学校関係者の努力は続けられ、遂に6月から本工事にとりかかることとなった。
屋体の本体及び付属工事は、中標津の最能建設株式会社が請け負い、工事は順調に進行して、8月20日に竣工した。規模は先に述べたとおりで、将来増築が可能なように設計され、ステージ及び放送設備を敷設した木造モルタル塗りの当地方最高水準のものであった。この屋体の落成を記念する祝賀式典は、8月28日午前10時より、その新装なった体育館で挙行された。生徒、父兄、教職員、そして役場関係者の列席する中、管内町村長や教育関係機関の来賓を迎え、更に、この日の喜びを一番実感していたであろう卒業生もかけつけて式典は開始された。最初に役場関係者からの工事経過報告があり、尾崎村長が式辞を述べた。続いて、村長から、工事請負の最能建設社長、貯蓄組合長太田卯蔵氏に対して感謝状が贈呈され、山本校長、植松教育委員長が挨拶を行い、その後、根室事務局(現根室教育局)長、中標津町長、釧根地区校長会代表釧路江南高等学校長、卒業生代表の祝辞が述べられ、根室支庁長他の祝電が披露された。この後、工事の完成を祝して、最能建設よりステージ用幕、そして小野季吉氏から校旗が寄贈された。この校旗は現在も本校のシンボルとして生き続けているものである。最後に、生徒全員で校歌が斉唱され、万歳三唱によって正午に式典を終え、引き続き来賓、父兄による祝賀会が行われた。昭和31年2月18日発行の「標津高校新聞」第3号に、山本校長は「本年を顧みて」という一文を寄せた。少し長くなるがその一部を引用してみたい。
昭和30年は本校にとって忘れ難い年であった。先ず思い出深いのは体育館である。本校発足以来旧校舎の一部を改造して運動をしていたが苦しみ抜いた3年間は、其処で育ったもので無ければ味わいえぬ程であった。何一つするにも中途半端で、ボールを使用禁止する体育館では冬期間等全く用をなさなかった。しかし父兄の一致した協力と、村教委、村当局の英断で立派な体育館ができた。
そして、8月28日落成式を行い、晴れて伸び伸びと運動ができるようになった訳である。此の記念すべき年に卒業する諸君は忘れ難い思い出となることでしょう。私としてもこの年は、一つの重荷が下りたような気がする。それに、又生徒会員は生徒会費を節約して、鉄骨組立の立派なバスケットゴールを取り付けることに協力してくれたので、全く内容外観共に整った体育館となったわけである。目を戸外に向ければ、校舎前庭も3ケ年越しに完成して、これは入学以来勤労奉仕的に全生徒が汗を流してくれたことを思うと、本校の実体はまさに、山野に入植する開拓者の感がある。(中略)更に待望の図書室も一応出発することができた。(中略)又理科教育振興法による補助金の割り当てを受けたので、各種実験器具を多数購入することができ(中略)あれやこれや見回すと今年は本校の内容が一新したといって良いでしょう。(後略)
これを見ても体育館の新築をはずみとし、それまでの苦労も実って、教育環境がかなり整備されたことが分かり、体育館の新築による波及効果が大きかったことが知れる。しかし、勿論のことながら、施設・設備は同じ紙上に「体育館落成の喜びによせて」と題した一文を寄せておられるが、その中で、落成までの度重なる苦労を切々と述べ、落成への喜びをまさに感涙にむせぶ思いで記された後に、「今またピアノ設備と校舎2教室の増築がある。一層いばらの道が続くだろう。」と今後への決意を表明しておられるのである。
体育館の落成は本校及び村内の文化面の向上にも大きく寄与した。10月8日にはかねての計画通り、新体育館で演劇部の発表会が行われ、多くの町民もこれを鑑賞したが、翌年以後は、村民の熱望で昼夜2回の公演が行われるようになるのである。
昭和31年に入ると、菅原氏の言葉にあったピアノ購入に向けての活動が1月から開始された。27日、31日とPTA関係者が寄付金の件について学校を訪れ、2月4日午後6時からは菅原PTA会長宅で打ち合わせが行われた。それに基づいて、翌5日からは市街地地区をはじめとして、ピアノ購入のための寄付募集活動が開始された。その成果は上がり、PTA各支部や有志からの寄付金は順調に集まり、ヤマハのグランドピアノ1台が発注された。3月26日にはピアノが3個口の荷物で本校に到着。翌27日には楽器会社社員が来て組み立てを終え、直ちに調律に入り、夕方いっぱいかかって調律を終えて引き渡しを受けたのであった。購入価格は付属品を含めて39万円で、この年は4月1日付で音楽専門の先生を迎えたので、タイミングとしても良かった。以後は、昭和27年度購入のオルガンに代わり、このピアノが音楽の授業や式典、行事に活用されることとなった。
こうして見ると、昭和30年度は、山本校長の記事にも述べられていた通り、本校が多くの意味で一大転換を行った年度であった。次々にあわただしくいろいろなことが処理されていく中で、3月1日には全日制第2回、定時制第4回の卒業式が挙行され、3月17日から学期末試験が行われ、20日には試験を終了し、思いで多い昭和30年度が終了したのであった。
昭和31年度は、4月5日に入学式とPTA総会が行われた。この総会を最後に種々の面で本校に多大の貢献をされた菅原氏がPTA会長を退任され、第3代会長として畠山是秀氏が就任された。
この年度以後は、本校は新制高校としての胎動期を終えて、まだよちよちながら、独り立ちして歩み始めたと言って良い。学校行事等も新たにはじまったものもあるが、学校生活に定着し、外面上も内容的にも高校らしい高校となっていった。
そのような安定感が生まれたのと歩調を合わせ、卒業生の中から同窓会設立の動きが芽生えだし、昭和32年1月15日の成人の日、機が熟し、本校の特別教室を会場にして発会式が行われた。当日は同窓生約50人が参加し、山本校長以下学校側関係者も出席して会は進められた。会則が決定し、初代の校長として発起人代表の大桃正好君(定3回卒)が選出された。以後同窓会はPTAと共に、本校を支える両輪として歩み続け、後には後出の通り新制卒業生だけではなく、高女の卒業生も会員として一本化し現在に至っているのである。
昭和32年度に入って、かねてから予定されていた校舎の増築工事が進められ、9月30日に校長室、職員室、特別教室及び事務室が竣工し、同時にPTA役員の後藤十郎、白幡富之助両氏の寄贈による校門も完成した。この工事完成によって、昭和37年に増改築は行われるが、本校旧校舎のスタイルが出来上がったのである。
徐々にではあるが、このように施設・設備が拡充され、また、社会的にも戦後の窮乏期を脱しつつあったこともあって、入学志願者も増加の一途をたどった。そのため、32年頃からは父兄の間からも全日制1学級増の強い要望が出されていた。村当局もその要望を理解し、道と折衝の結果、昭和33年度より、全日制普通科の2学級募集が認可されるに至った。
一方、村の動きとしては、昭和32年12月26日付北海道告示第1629号、12月27日付総理府告示第501号をもって、昭和33年1月1日より標津村を標津町とすることとなった。この結果、当然のことながら、本校も村立から町立に変わることとなった。かくて新制高校としての草創の時期を終え、町立高校、全日制2学級時代を迎えることとなった。
4 10周年に向かって
全日制2学級募集、村立から町立へ移行した昭和33年、未だ昭和32年度であった2月25日、午前10時より全日制第4回、定時制第6回の卒業式が挙行された。この年の卒業生が、標津町立北海道標津高等学校最初の卒業生となった訳である。ついで、4月1日午前10時より、全日制普通科2学級募集最初の入学生121名を迎えて入学式が挙行され、引き続き12時30分からはPTA総会が行われた。
この年は、標津高校にとっても新しい出発の年であったが、それ以上に町政施行という町にとっての一大転換の年であったが、既に1月1日を期して標津村から標津町となっていたが、町当局はその区切りをきちんとつける意味からも町政施行の記念式典等の記念行事を着々と準備中であった。
そのような中で、今や体育館も完備した本校は、町の文化センター的な役割を担っており、そのような見地と、生徒の情操教育の一手段として、PTAの後藤十郎氏が中心となって、16ミリ映写機購入の計画が進められていた。その結果、4月24日にPTA購入備品として16ミリ映写機が購入され、取扱説明をうけた後に正式に本校に引き渡されたのであった。当時、映画は最大の国民の娯楽であったばかりでなく、テレビもまだ普及していなかったこともあって、地方にあっては重要な文化的メディアであり、視聴覚教材でもあった。本校では、これを左側活用することとし、5月17日土曜日、午前中に前項マラソン大会を実施した後、正午から初の映画会を行った。この時には標津中学校の生徒も共に鑑賞しており、この後、町民に対しても本校を会場としての映画会が行われた。
又、新設なった体育館も、学校の授業や行事だけではなく、広く町民の間にいろいろな面で活用された。この頃の期間に限っても、5月21日には自衛隊の慰問のために町を訪れた歌手の渡辺はま子一行の公演が行われ、5月23日には衆議院議員選挙の開票場として使用されるという具合であった。このように、本校が町立の高校として町民に親しまれ、そのもてる力を町に還元するという状態は、本校の施設・設備の充実に合わせてその度合いが強まっていき、既に恒例となっていた演劇発表などは全町民の楽しみともなっていた。
そのような素地の下で8月14日には晴天に恵まれて、本校体育館を式場として、午前10時30分より町政施行祝賀会が盛大に挙行された。本校の新制高校としての歩みに大きく貢献された尾崎町長は翌年の任期満了をもって退任されることを既に決意しておられ、村・町長在任中の多くの御功績の最後を締めくくる一大行事が本校で行われると言うことは、本校にとっても町長にとっても感慨深いものであった。
昭和34年は皇太子御成婚にわいた年であったが、この2日前の4月8日、本校の入学式及びPTA総会が行われたが、入学式は例年通りすんなりと終わったのであるが、PTA総会の方はすんなりとはいかずに役員改選が難航し、各支部の意向を聞いた上で5月8日標津支部の総会後選考委員会が行われ、当時既に町長を退任され、道議会議員となっていた尾崎勇氏が選出された。尾崎氏もこれを了承され、第4代会長に就任されて一件は落着した。
一方、学校独自の問題としては、商業科設置問題が起こった。昭和33年度から全日制2学級募集となったが、生徒の進路、適性に応じ、この年の2年生から教育課程に類型を設け、2・3年においてはコース制をとり、普通・商業・被服の3コース制で授業を行うこととなったが、生徒の選択希望は普通40%、商業50%、被服10%という結果であった。このため、普通科2学級募集を続けるよりは、実情に合わせて、普通科、商業科それぞれ1学級募集とすべきであるという意見が強く、結局、町教委もこの要望にそうべく道教委に認可申請を行うことになった。その結果、この年の12月2日に道教委より昭和35年度からの商業科募集が認可された。
明けて昭和35年1月21日、昭和25年中標津高等学校標津分校から発足し、10年を経過した定時制課程は、時の流れと共に志願者も減じ、既にその役割は12分に果たし終えたと認められ、その募集停止が決定された。
かくして、昭和35年度は、4月8日に入学式を挙行し、この年からは定時制の入学者はなく、全日制についても普通科、商業科に分かれて新入生が入学してきたのであった。郎氏が選出された。
この年は昭和25年の分校開校以来、ちょうど10周年にあたっており、町、学校、PTAの三者が中心となって、10周年記念の式典を含む記念事業が行われることとなった。式典は、10月1日午前10時30分からと決まり、その他の記念行事等も計画立案され、9月20日に山本校長、岩田町長、佐々木PTA会長の連名で知事をはじめ関係各方面に招待状が発送された。
式典当日の10月1日は晴天に恵まれ、予定通り午前10時30分より記念式典が挙行された。学校長式辞の後、町長をはじめ来賓の祝辞があり、その後、佐々木PTA会長から、尾崎勇氏をはじめとする開校功労者、歴代PTA会長等9名の方々に感謝状が贈られ、標津町教育委員会からは、山本校長外8名の永年勤続職員に感謝状が贈られた。
この記念すべき10周年を、関係者はそれぞれの感慨をもって迎えたであろうが、それらを代表して、以下に当日の山男校長の式辞を記し、永く記録としてとどめたい。
式典を終わった10月2日以後には、記念行事が8日までの1週間にわたって実施されたほか、バレーコートの新設、前庭石垣の築造の事業も行われた。このようにして、翌年からは新たな11年目への歩み出しを始めることとなった。
5 道立移管を目指して
創立10周年を終え、新たな気持ちで昭和36年が始まったが、新学期が始まって間もなく4月30日付で山本校長の愛別高等学校長への転出が発令となった。村立高校発足の26年に着任し、10年間にわたって新制高校としての標津高等学校を、文字通り作り上げてきた山本校長の突然の転勤は、学校の内外に大きな衝撃を与えた。しかし、いつかは迎えねばならないことでもあった。
後任の第2代校長には、5月1日付で根室高等学校から喜多貞三氏が発令され、5月3日に新旧校長の事務引継が行われ、同日6時からは標津漁協の会議室で新旧校長の歓送迎会が行われた。この後、必要な事務処理、関係各方面への挨拶回りなどを行い、5月16日午後3時、山本校長は思い出深い標津の町を離れたのであった。同じ日、喜多校長が正式に着任した。
二代目喜多校長の着任を待っていたかのように、開校当時からの懸案事項ともいえる道立移管問題が表面化してきた。しかし、施設面一つをとっても道立移管への道はけわしい、ということは誰にも理解されていた。道内には本校以外にも道立移管を希望している高校が多数あり、その成否は道及び道教委との政治折衝にかかる、という情勢であった。
だが、道立移管は当時の町にとっては悲願といって良い懸案であり、これを積極的に推進する時期に来ているとの判断もなされていた。そこで、10月22日に佐々木PTA会長を会長とする道立移管促進期成会が発足し、積極的な働きかけを開始する一方、移管基準にそうよう校舎の増改築を行い、又一方では、教育内容や生徒の活動面での実績づくりも取り組まれることとなった。その具体的な表れとして、翌37年4月28日には今野忠志氏を初代会長として体育後援会が発足し、同年の7月には本校の歴史に残るタイプ部の全道大会完全優勝という、誰もが想像だにしなかった偉業が達成された。タイプ部の活躍については、本校生徒会の活動の歴史中でも特筆すべきことであり、この後も活躍が続くこととなった。
同年の9月30日にはかつての小学校校舎を補修していた部分を取りこわしての、校舎の増改築工事が竣工し、12月23日にはその落成記念式典が挙行された。この頃には、道立移管問題はすでに大詰めを迎えており、期成会関係者や特に町の柳沢教育長はその実現に向けて、正に超人的な活動を展開していた。その経過の中で、羅臼町から強く分校(定時制)設置の要望が出されていたが、結果的には関係者の熱意が実って道立移管、羅臼分校設置の両方が認可されることとなった。
昭和38年に入ると、2月4日、9日と道教委から道立移管のための施設・設備の調査のため係官が来校し、着々と移管事務が進められていった。このような中で、2月24日に全日制第9回、定時制第11回の卒業式が挙行され、この後は移管に向けての種々の準備が急ピッチで進んでいった。3月9日には移管にともなう人事に引継が行われ、29日にはその役割を終えた期成会の会計監査が行われ、31日の移管式に向けて準備はすべて完了した。
なお、この年の卒業式は既に終わっていたが、卒業証書は3月31日付で発行され、卒業生は道立高校として初の卒業生となった。
1 道立高校としての新たなる出発
(1) 羅臼高校の開校
本校に於いて道立移管運動が展開されていた頃、羅臼町では町内に高校を設置するべく、関係当局に対する強力な働きかけがなされていた。
羅臼町から最も近い位置にある高校は標津高校であったが、それでも48キロの距離があり、通学は不可能であった。したがって、羅臼町民の子弟が孝行に進学する場合、どうしても下宿や寄宿舎に入らなければならず、その経済的負担が多大なるがゆえに、進学希望者の多くがこれを断念せざるを得なかった。
そこで、標津高校の道立移管に伴う定時制募集停止に時期を合わせて、かねてから念願の町内高校設置を羅臼町で真剣に取り組むこととなった。
そして、廃止された本校の代替えのような形で、標津高校羅臼分校が誕生した。38年1月18日に認可され、同年4月13日羅臼中学校の一部を借用して開校し、同月31日開校式が挙行された。羅臼町民の宿願がかなったわけである。
(2) クラブ活動の隆盛
道立移管後、道立高として名実相伴う実力を備えるために、標津高校の生徒及び教職員の志気はいやが上にも昂揚した。その一つの現れが、39年度におけるクラブ活動等の目覚ましい入賞の数々であった。
過ぐる37年7月、顧問の宮沢先生の精魂込めた指導と、部員生徒の熱心な努力とによって、「全道大会初出場初優勝」という快挙を成し遂げたタイプ部は、その伝統を受け継ぎ、この年の7月札幌啓北商業で行われた全国和文タイプライティング競技大会北海道大会で団体2位、個人1位、3位を獲得、さらに続く11月15日の全道和文タイプライティング競技会で団体、個人とも見事優勝を果たした。そして以後商業科が廃止されるまで(注:43年4月1日)「タイプの標津高校」の名をほしいままにし、タイプ部黄金時代を現出させる基礎を固めた。
また、6月12日の高体連陸上競技大会釧根地区大会では、陸上部員5名が全道大会に駒を進め、次いで、9月7日、野球部が秋期新人戦野球大会で決勝戦に於いて釧路工業高校と対戦、3対2で優勝を手中にしたのである。この時の応援模様は標津高校始まって以来のもので、学校をあげて毎日のように釧路までバスや汽車で応援に繰り出していた。そして優勝決定の翌日、野球部帰着の駅前は、全校生徒をはじめ町民多数が出迎え、優勝報告会の後町内パレードが催され、町民ぐるみで、当時男子生徒数188人という郡部校の(郡部校の優勝としては実に10年ぶり)優勝の感激に酔いしれた。そして、9月21日から札幌で始まった全道大会では準決勝に進出し、名門北海高校に敗れはしたものの、全道に標津高校の名を知らしめた。またこの時の全道大会出場に当たっては、当時の佐々木繁太郎氏が寄付金集めに奔走された一幕もあった。
いずれにしても、全道の檜舞台でのこれらのクラブの活動が、標津高校の確かな歩みを印したことは間違いなかった。
(3) 学級(間口)増へ向けての努力
道立移管後の着実な歩みの中で、新たに学級(間口)増の問題が本校関係者によって真剣に考えられるようになってきた。
これまではどちらかというと、全道的に見ても高校進学率が低かったこの地域ではあったが、産業の振興や道路の整備により、全道的に高校入学者がピークを迎えると予想された40年度をはじめとして、進学率の上昇、高校入学志願者の漸増がはっきりしてきたからである。このため、39年11月5日のPTAの役員会で、それに先行する町有力者による道教委への意向打診を受けて、40年度の標津高校学級増に関する提案がされた。そしてこの時の討議によって、困難の予想される学級増の実現に向けて、「標津高等学校学級増期成会」が結成された。次いで、11月14日、期成会の第1回会議がもたれ、運動推進の目標として普通科の増設を、また陳情書お早急に作成して道教委への積極的に働きかけることを決議した。
しかし、翌40年1月29日、学級増期成会陳情団の報告会が開かれたが、席上佐々木団長は、「枝幸、標津、長万部の3校は、学級増運動展開中の40校の中でも最優先されて、一時は3校の学級増の承認がなるかと思われたが、以後の進展を見ず、300人くらいの入学不可能者が予想される枝幸でさえも、最終的には学級増の断念を余儀なくされた。このために第2候補である標津高校も、自動的に断念のやむなきに至った。」と経過を説明した。つまり、昭和40年度の標津高校の学級増は、実現を見ることができなくなったのである。
しかしこの後、校舎新築移転を挟んで、粘り強く運動が展開されてゆくことになった。
(4) 定時制課程最後の卒業式
昭和40年度は、商業科生徒の部員からなる購買部が新設されたり、ここ数年の懸案事項であった「長髪問題」が、指導課から「長髪に関する規定」が提案されるに及んで一応の解決をみたり、旧標津病院跡の建造物を内部改造し寄宿舎とすることが、町関係者と本校PTAとの協議で決議されたりした。あるいはまた、前年度に引き続いてタイプ部が春、夏の全道大会で連続優勝するなど、何かと話題の多かった年ではあったが、何といっても忘れがたいのは、この年をもって定時制課程が廃止されたことであろう。
40年3月10日、定時制最後の卒業式が行われた。思えば昭和26年の開校以来、数えて15年目のことである。15年間で71名の向学心に燃える卒業生を送り出した定時制課程であったが、時代の波には抗しきれず、志願者の激減によって35年には募集停止となり、そしてついにこの日を迎えたのであった。15年間での卒業生総数を見れば明らかなように、様々な理由で、途中で辞めざるを得なかったものがかなり多かったのであるが、勤労学生という厳しい条件に屈せず、最後まで頑張り通した卒業生たちは、何ものにも替え難い貴重な体験を得たのに違いない。
それにしても、全日制第12回卒業生とともに、4年間の学業を終えて学舎を巣立っていった定時制第14回卒業生5名の胸中に去来したのはいかなる感慨であったろうか。その寂しい信条を「答辞」で次のように述べている。
『白い国後の山脈を遠くに眺め、オホーツクの流氷がくっきりと浮かぶ標津にも、ようやく春の訪れが近づいてきました。
本日、定時制第14回、5名のわたくしたち卒業生は、4年間の苦節をのり越えて卒業証書を手に握り、高校生活に別れを告げる時をむかえることができましたのは、来賓各位、諸先生の良き指導と激励の賜と深く感謝しております。振り返ってみると、わたくしたちと一緒に入学した仲間には途中でやめた人や転校した人もおり、本日こうして栄えある卒業式を迎えることができたのは5名だけとなってしまいました。全日制と異なり昼は職場に勤め、夜は学校に通学するという4年間は苦労の連続でありました。(中略)標津高校も長い歴史を積み重ね、今日まで発展を遂げてきましたが、定時制課程は本年度のわたくしたち卒業生を持って最後となりました。わたくしたちの後輩が今後卒業しないと思うと寂しい気持ちでいっぱいです。しかし、わたくしたちは標津高校定時制最後の卒業生だという誇りをもって卒業していきたいと思います。在校生の皆さんにお願いします。わたしたちは全日制の皆さんと話し合う機会が無く残念に思いますが、母校を思う心は皆さんと同じです。どうか良い校風を育て、まじめに考えまじめに勉学に励む生徒となるよう努力してください。(中略)わたくしたちはいつまでも母校を忘れずに、苦しいときも楽しいときもあの素晴らしいリズムの校歌を心で歌い、声を大にして歌い続けていくでしょう。諸先生、在校生の皆さん、標津高校の発展のために尽くしてください。わたくしたちも先輩として母校に愛着を持ち発展のために力を尽くしていきたいと思います。
第14回定時制卒業生代表 岩倉守(「20周年誌」より転載)
2 校舎新築移転と20周年への歩み
(1) 商業科の廃止・普通科1学級増
昭和42年は、道教委により大幅に公立高校の再編成が進められた年であったが、標津高校に於いては科の組み替えという形で再編成の波が押し寄せた。
当時、隣接する中標津高校は全日制が普通科4、商業科2、定時制普通科1の7間口、標津高校は全日制普通科1、商業科1の2間口であったが、道教委は現行の総合制では施設や設備、教員配置が不十分なため教育効果を上げることが困難であるとして、41年に中標津高校を普通科、標津高校を商業科の学校とする改変計画を立て、地元関係者へ働きかけてきた。しかし、この計画に対して中標津高校側には異論はなかったが、標津高校及び地元関係者としては、商業高校になった場合、普通科に入る生徒は中標津まで通学しなければならず、父母の負担を大きくすることや、交通不便のため通学に不安があるので、反対せざるを得なかった。また、道教委としても、標津高校の編成替えを見送って、中標津高校だけを編成替えすることは、管内での普通科と商業科のバランスからいって無意味であるとして、結局結論が出されないままに話し合いが中断されていた。
そこで翌42年に、道教委は計画を比較的地元の抵抗がない科の再編成に切り替え、中標津高校を総合制のまま間口を普通科3,商業科3(定時制はそのまま)、標津高校を普通科2へ単一化することを地元関係者に働きかけた。またこの時、両校の通学区域では将来とも志願者減が見込まれないため、高校再編成計画の終わった段階で、標津高校に1間口増を道教委へ働きかけるという計画が、根室教育局から標津高校関係者へ出された。
そこで、標津高校及び町の関係者によって、道教委の意向を受けて、慎重な討議が繰り返された。そして、全道的見地から学級増が可能になった場合、標津が最優先であるという含みをとりつけて、最終的に道教委案を諒承することになったのである。翌43年4月1日、商業科が廃止され、普通科2学級募集となった。昭和35年のスタート以来、45年3月に最後の卒業生を送り出すまで、8期713名の卒業生を数え、タイプ部の活躍に象徴されるごとく、実社会に役立つ技能と知識を備えた生徒を送り出し、地元産業の期待に応えてきた本校商業科が幕を閉じたのである。
(2) 校舎新築移転への努力
道立移管の際に、移管基準に見合うように増改築された校舎であったが、もとより充分なものではなく、学校の教育活動の拡充、環境の整備が緊急の課題となってきた。そこで故第4代校長中辻藤雄校長を中心にして、まず、昭和41年2月18日に工事費84万3千円をかけて男子寮が改修された。次いで10月28日には139万1千円をかけて女子寮の内部改修工事が竣工した。また、42年度に入ると生徒玄関間口増築や内部改修工事など、校舎改修工事が行われ12月13日に竣工し、着実に施設設備の充実が図られていく。
しかし、これらの部分的改修だけでは、年々充実していく教育活動に、もはや対応できるものではないことは明らかであった。例えば、昭和30年に建てられた屋内体育館ひとつとってみても、建造当時としては立派な建物ではあったが、現在では普通授業の球技さえも思うように出来ぬ狭さであり、いわんやクラブ活動に至っては全くその実施が困難な状態であった。また、屋外グランドも非常に狭いもので、野球部の活動や体育のソフトボールの授業は実施できず、いずれも自衛隊前の空地(現在の高校サッカーグランド)まで足を運ぶという不便さであった。さらに校舎は昭和16年の増築以来の逐次増改築されて現在に至っていたが、全体としては老朽化を覆いきれず、全面的な校舎の改築が懇望されるところであった。しかし校舎の位置が町の中心地であるために、民有地が近接し敷地の拡張が不可能であり、校舎の増築、グランドの拡張が絶望的だった。つまり、学校の施設設備の拡充の前に、どうしても校舎を移転させ充分な敷地を確保しなければならなかったのである。ここに、町長、教育長を中心とした学校関係者の手によって、校舎新築移転へ向けての運動が強力に推進されることになる。もちろん、野球部やタイプ部の活躍に象徴される学校の教育活動の充実が、この運動に拍車をかけたことはいうまでもない。
だが校舎新築移転の実現には、困難な幾多の障害がその行く手に横たわっていた。その間の事情については、故中辻藤雄校長の回想に詳しいので次に引用したい。
『昭和38年3月31日、標津高等学校は道立に移管された。この時の条件に、施設の修繕等は標津町において5年間負担するという条項があった。そしてまた、このような条項が不必要なほど完備した施設を持たなければ、道立に移管されなかったはずである。道立高校移管は、その施設設備の不備な点について、早急に整備するという確約事項があるのが普通で、本校もまた不履行のままのものがあったことは事実である。
およそ
このようなときに、新築移転の話を持ち込むこと自体まったく乱暴なことであり、ナンセンス呼ばわりされてもいたしかたないというのが実態ではなかっただろうか。事実この話を聞いたものは「道立移管して何年?」「それじゃ話にならん」というのが答えであった。それがどうであろう、20周年を迎えた今日、道立移管僅かに7年足らずで、新装なった校舎に移転してしまっているのである。この世にも不思議な物語といっては語弊があるが、いかにして新築移転が、かくも早く実現したかということを、ごく大ざっぱにたどっておくことも無意味なことではあるまい。
新築移転が陳情という形で、最初に行われたのは昭和40年であった。まことに失礼な言い分ながら、この陳情が新築移転の可能性ありと信じてのものであったかどうかは、少々まゆつばであったのではないか、と思われるふしがある。それは、高校再編の波が標津にもひたひたと押し寄せ、商業専置すなわち普通科の廃止という強い圧力のかかっていたときでもあり、この裏には、中標津高校との関連から将来は廃校?ということも充分考えられたからである。ともかく、いち早く学級増と校舎移転をふりかざして、守勢から攻勢に転じた先見は高く評価される。
その後、町当局は新築移転先決とPTAの学級増先決の考え方とが、あるいは対立するがごとく、あるいは根を同じくするがごとく並行して運動されていくが、実はこの内的チームワークの絶妙さが、道をして新築移転に踏み切らせた大きな原因になったようである。
ここで小野幸三町長を中心とする町の動きを追ってみよう。再編成問題に協力するようなジェスチャーを見せながらも言質を与えず、高校立地条件の不利を力説し、それを新築移転に結びつけた政治的駆け引きと情熱は、道関係者のみならず、本町の関係者にも多大の感銘を与えたものである。またこのことは、将来町に負わされるであろう、さまざまな負担に対する布石でもあったろう。氏の説得は理論一点張りのものではなく、たとえば、こんなこともあった。
「私は運動好きで関心を持っているのだが、屋外運動場は狭すぎる。硬球が窓を破ってガチャンと町長室にまで飛び込んでくるありさまだ」という話なども、道教委関係者はよく聞かされた話であろう。事実硬球はよく町長室のガラスを破り、それを何度の聞かされている地元のものは、町長がよくヘルメットをかぶって執務しないものだと感心することしきりであった。
こうして、道立移管後まもない標津高校の新築移転に対して「池田方式以外ではだめだろう」という言質を得ることとなるのである。池田方式とは、現校地、校舎を売り払い、その金を特定財源として新築移転することである。ところで本校は校地が二つに分かれており、校舎所在地を校舎とともに売却しても新築費の半分にもならない。したがって、この段階でも難問は山積していたのであるが、何か突破口ができたという感じであった。
一方PTAでは、学級増の必要性をその決議で示し、別に佐々木繁太郎氏を会長とする学級増期成会の発足とともに、鈴木信近PTA会長を柱として学級増の運動を強力に推進していった。当初の考え方は、学級増を実現できれば現校舎は敷地難と施設設備の不備のために移転せざるを得なくなるというところにあった。(中略)
43年になって、新築移転と学級増のいずれを先にすべきかであたかも対立の姿を呈していた町とPTAとが、まず、新築移転ということで足並みをそろえるのである。それは新築移転も学級増を考慮してでのことであり、学級増は46年頃でなければ望み薄という情勢分析によるものであった。町はまず役場新築という多年の悲願を捨てることによって、高校新築移転の決意を表明した。各地で続々と新築される豪華な庁舎を見聞きする町民にとっては、近く新築される役場庁舎は町のシンボルとしての夢であっただろうし、町の吏員にして新しい庁舎で執務することは待望のことであったに違いない。このような願望や要求を、教育優先を唯一の大義名分として説得された熱意に道側は感応し、すでにこのとき新築移転への一歩は大きく踏み出されていたのである。道の総務部長、道教委学校管理課長などの来町が頻繁になるとともに、道・道教委に対する陳情や説明も繰り返し行われた。かくて9月、道教委は旧校地校舎を町に売却した金を特定財源とし、敷地を町が寄付することを条件として、標津高校新築移転を予算要求書に盛り込む決意を固めるにいたったのである。(後略)』(「新築移転のきまるまで」故中辻藤雄校長「20周年史」より)
校舎の新築移転ということは、まさに至難の業であった。しかしこれらの決定的な障碍を克服して新築に漕ぎ着け得たのは、町長、教育長をはじめとして、町をあげての教育最優先の熱意の賜であったことが、故中辻校長の回想記からもうかがえる。ここで校舎新築移転運動が本格化した43年からの足跡を辿ってみよう。
前掲の回想記にもあったように、7月4日・5日の両日、町長・教育長によって校舎新築移転に関して、道教委関係者に陳情が行われた。追って8月19日には、校舎移転準備委員会(仮称)の第1回会合がもたれ、9月30日には校舎移転促進期成会が設立された。この間、町関係者による道・道教委に対する陳情がくり返されて、10月下旬には新築移転がほぼ内定し、それを受けて具体的な青写真づくりがなされた。ところが年が明けると、標津高校新築移転は予算計上されたものの、財務課長査定では予算化されず、知事査定に持ち越される公算が大きくなった。そのため1月20日、町及び新築関係諸団体が出札して、各方面に陳情を行い、最後に知事に面会して熱誠溢れる陳情を行った。そして、2月1日、校舎新築移転はいよいよ大詰めとなり、この日校舎移転の決定経過が役員会の議題として小野町長より説明されたのである。既に決まっていた、道立高校50校の新築順位に割り込むことができたのは、文字通り奇跡であった。かくして遂に6月19日、校舎の新築が広木建設株式会社によって着工され、4838万円の校舎は11月15日に完成をみたのである。同月21日全校292名の生徒と教職員が手ずから大移動を行い、喜びの中に校舎移転が完了した。
(3) 創立20周年を迎えて
校舎新築移転がなった翌昭和45年2月7日、校舎新築落成と創立20周年を記念する式典が、新装の屋内体育館で、約300名の来賓、父兄、同窓生が参列して午前10時から盛大に行われた。この席上、歴代校長、永年勤続者等に感謝状が贈呈され、また佐々木繁太郎協賛会長から中辻藤雄校長に記念事業目録が贈られた。続いて午後からは同会場において、記念祝賀会が挙行された。
これらの記念事業、行事は20周年記念行事協賛会がPTA、同窓生等によって組織され、同会が中心となって行われた。また、この時の記念事業、行事のために組まれた予算は約270万円であった。その大部分は記念事業に割かれ、主なものとしては、「20周年史」の発行費、クラブ室建設費、ステージ用幕一式の購入費、吹奏楽器の充実費などであった。そしてこれらの記念事業は、新築の校舎に見合う設備の充実を図るものであり、それ以降の学校生活の上で大いに役立てられた。とりわけ、吹奏楽器の購入(クラリネット・トロンボーン各2、ユーホニウム・フレンチホルン・トランペット・小太鼓各1他)は、これまでブラスバンド部が、楽器の不足に悩まされ、思うような活動ができなかったのを解消し、後年の活躍の道を開いた上で意義があった。
このようにして、校舎の新築落成、20周年記念式典という記念すべき仕事の二重の喜びに、全校生、全教職員、本校関係者が浸ったのであるが、その感激とともに、新たなる学校の発展へ向けて、それぞれの胸の内で決意がなされたのであった。当時の生徒会長高橋君は次のように語っている。
『海別岳を背にオホーツクの風を受けた白鳥をかたどった校章を掲げて、昭和26年4月1日に、わが北海道標津高等学校が設立されました。その翌年から校舎の改築などがあったそうですが、当時は教材教具が少なく、先生方も生徒も不自由したことと思います。現在は信仰者に移転でき、私たちはいままでの標高生の中では一番の幸せ者といえるでしょう。(中略)
20年、人間でいうならば20歳です。学生服を背広に着替えるように新校舎は建ちましたが、まだまだわたしたち標津高等学校、標高生は子どもといったところではないでしょうか。とするなら、これから大きく、大きく育つ若者のみが持っているあらゆるものへの可能性があり、創造の力があります。まだまだ生徒会は標高生であることをあらためて自覚して、この“20周年”を新たな標高の出発点として、過去を振り返り、現在を見つめ、未来に向かって羽ばたこうではありませんか。』(「標高の再出発」第26代生徒会長 高橋弘一 「20周年史」より転載)
施設・設備の飛躍的に充実した新校舎で、標津高校は成人式を迎えた。在校生・教職員は、ここまで漕ぎ着けた先人の努力、町当局やPTA・町民各位の熱意、道当局の本校に対する熱意に深く感謝し、標津高校のより一層の発展のための覚悟を新たにしたのであった。
3.普通科1学級間口増から現在まで
(1) 普通科1学級、間口増の実現
校舎の新築落成と20周年の行事を終えた後の本校の歩みを簡単に辿ってみると、まず45年の4月に、数々の業績をあげられた中辻校長が、北海道三笠高等学校に転出され、第5代荻田寿隆校長が着任された。荻田校長は前任者に引き続いて施設、設備の充実を手がけ、45年7月15日の校門の寄付受け入れをはじめ、46年9月29日に石炭庫(38.73u)と灰捨場2基を完成させ、さらに47年1月19日には、体育部室3室の寄付受け入れをした。一方校内の動きとしては生徒への還元を目指して、教務課を中心にして校内研修体制が整えられ、研修ゼミナールの開設・相互授業参観・公開授業等を通じて、年々多様化する生徒の指導のために、教職員の組織的な研修が進められた。また、行事としては、年2回(6月・11月)の映画教室が46年に新設され、生徒の文化面での向上が図られたり、道教委の指導の下に、1年生の宿泊研修が同年から取り組まれたりした。また、クラブ活動も引き続き活発で、中でも、45年の庭球部男子の地区大会団体優勝、及び女子個人(複)の狩野・山形組の3位入賞は、全校生徒を大いに沸かせた。また、同年に海瀬かづ江さんがその作品「風の中の微笑」で有島少年文芸賞を受賞するという快挙があった。そして、この時期に待望の学級増に向けての運動が、校内外の協力で再会されたのである。
学級増に向けての取り組みは前述したように、昭和39年11月14日に、「標津高等学校学級増期成会」が結成されたことに始まる。この時には、翌40年度からの学級増(普通科1間口)を目指して運動が行われたが、全道50校に及ぶ学級増を希望する高校の中で、枝幸高校とともに、道教委から本校における間口増が最優先されたにもかかわらず、結局実現をみることができなかった。
しかし、その後も陳情は続けられ、43年度の科の編成−普通科1、商業科1の編成から、普通科2の編成への変更−の際には、将来全道的な間口増が実施される場合、標津高校の間口増を行うという約束を取り付けた。そして、同年から44年にかけては、校舎新築移転が間口増実現の上からも先決であるとして、間口増の運動を一時的に中断、校舎新築移転運動を父兄の了承を得て手がけてきた。
そして、校舎の新築移転が決まり、工事が着工されるとすぐに、学級増の運動が展開され、44年8月、期成会役員、町関係者が出札して、道・道教委に対して陳情を行った。またこの時の陳情では、従来の普通科1間口増設の方針が改められ、家政科1間口の増設が陳情された。
この方針変更の裏には、根室管内には全日制では普通科・商業科の間口しかなく、工業科や家庭科の間口がなかったので、普通科の増設を希望するよりも家政科の増設を希望した方が実現しやすいという判断があったと思われる。また、標津高校の前身は昭和9年に創立された標津実践女学校であり、戦前戦後の約20年に渡って、当地方の女子教育振興を担ってきたという実績を、家政科の増設ならば強くアピールできるという計算もあったであろう。しかし、道教委の姿勢は固く、再三の陳情にもかかわらず、間口増はなかなか実現されなかった。
ところで、標津本校で間口増の運動が進められていた一方で、羅臼町では羅臼分校の定時制課程から全日制への課程変更の気運が兆し、やがて羅臼町民全体の強い希望となってその運動が盛り上がってきた。そのため、本校及び町関係者は、その運動を無視できず、標津高校の間口増の運動を、羅臼分校の課程変更と関連させて、調整しながら進めなければならなくなり、一層その実現に難しさが加わったのであった。
このように学級増の実現は、当初予想されていた困難さをはるかに上回り、“いつになったら”という思いが関係者の胸を塞ぎ、焦りを誘った。しかし、そのような状況の中でも関係者は徒労感と戦いながら、粘り強い努力を続けていくのである。
そして、昭和47年9月27日、最後の努力を期して、標津高等学校学級増期成会役員会が招集された。この時には初代会長佐々木繁太郎氏から鈴木信近氏に会長職のバトンが渡されていたが、席上まず小野町長、柳沢教育長の両氏から経過報告がなされ、次いで今後の運動方針(この時既に家庭科1間口の増設の方針から普通科1間口の増設の方針に戻されていた)が検討された。その主な内容は次の通りである。
(1) 陳情理由のデーターが数字的に弱く説得力に欠けるため、今後は人脈に強く頼らざるを得ない。
(2) 具体策として、期成会としての再度の出札・陳情を実施する。
(3) 羅臼町が全日制への転換を強く希(4) 望している点に鑑み、これと連絡、調整して今後の運動を強める。
そして結論として、数字的に学級増の必要性をまとめ、事務段階を固めて、最後に政治段階にのせること、10月3日〜5日までの間に、出札・陳情の機会を持つことなどが決定された。この段階に来て、小野町長・柳沢教育長両氏の政治的手腕が遺憾なく発揮され、それが道教委として間口増の決定を決断させるにいたったのである。
かくして、12月1日、待望の普通科1学級の増設(昭和48年度実施)が認可された。また同時に、羅臼分校の48年度からの全日制課程変換が認可された。実に39年以来、足かけ8年の長期に渡っての、関係者の熱意と努力とがここに結実されたのである。この間の関係者の方々のご尽力には、ただただ頭の下がる思いがするばかりであるが、とりわけ本校開校以来、常に理解とおしみない協力をよせていただいた小野町長・柳沢教育長・佐々木・鈴木歴代期成会長及び町民諸氏の教育に対する深い理解、熱意を今更のように銘記させられるのである。
(2) 間口増に伴う施設の拡充整備
普通科3学級募集となった48年4月21日、荻田校長が北海道稚内高等学校に転出され、第6代島利雄校長が就任した。着任早々島校長は、間口増による施設設備の整備に着手しなければならなかった。既に荻田校長によって、間口増に伴う施設の拡充計画が道教委に提出されていたが、その早期実現を図るため、「北海道標津高等学校施設設備整備期成会」が組織され、学級増期成会に引き続き鈴木信近氏が会長に就任した。同会は早速陳情書を作成し、運動を進めたが、この陳情の際には新たに校舎移転時からの懸案事項であったグランド及びテニスコートの造成と、それに伴う設備・備品の整備も盛り込まれた。
その結果、まず同年10月9日に第1次のグランド造成が610万円の工費で実行された。この時に使用された盛土は、前年に荻田校長が町から道路工事の残土をもらい受け、運搬、堆積されたものであった。続く49年3月29日には、校舎の増築がなされたが、これは普通教室2教室のみの増築であって、当初計画されていた視聴覚室等の特別教室や、間口増に伴う教員増による狭隘が予想される教務室等、管理棟の増改築は見送られてしまった。その後、グランドは、同年9月27日に第2次の造成が工費606万円をかけて行われ、50年の11月7日に至って完成をみた。また同時に、テニスコート及びそのフェンスも完成された。他に、格技場が49年12月19日に完成し(工費2795万円)、野球場のバックネットが50年9月13日、工費2550万円をかけて造られ、12月には焼却炉(10万円)も新設された。
以上のごとく、間口増の完成年度である50年をめがけて、施設・設備の拡充・整備がなされてきたのであるが、必ずしも満足できるものではなく、後々に問題を残すことになった。
(3) クラブの活躍
48年6月、これまで着実な活動を続けてきた陸上部は、その部史に永く残るであろう一大快挙を成し遂げた。すなわち、高体連全道大会における男子400mリレーの第4位入賞と全国大会出場権の獲得である。過ぐる45年の全道大会でも、1500mで岡部清治君が2年連続の全国大会出場権を獲得し、群馬県で開かれた全国大会に出場していたが、リレーにおけるこの好成績はまた格別の喜びであった。しかし、小規模校ゆえの悲しさから、全国大会出場には予算面でかなりの苦労があった。その間の事情については、旧職員佐藤脩先生の回想記に詳しいので参照されたい。また、45年に地区優勝した庭球部も、47年の高体連地区予選大会で個人(複)優勝、続く新人戦地区予選大会でも個人(複)優勝、さらに48年の地区予選大会個人(複)優勝と、団体優勝は逃したものの、部の伝統を堅持し気を吐いた。そして、この時期で特筆すべきは、これまでどちらかというと地味な活動を続けてきた吹奏楽部が、48年に安達忠衛先生を新顧問に迎えて以来、飛躍的にその技量を向上させ、ついに昭和50年の第20回北海道吹奏楽コンクールにおいて銀賞を獲得したことである。以後、同部は連続して全道大会に出場を果たしたが、そこには部員の熱心な努力もさることながら、安達先生の若々しい情熱に溢れた指導によるところが大であった。また、安達先生は町の要請に応えて、「標津町吹奏楽団」の結成に尽力し、団長として情熱を傾け、標津町の文化的発展に協力されたのである。
(4) 研究実践校の指(5) 定と本校における研修の歩み
昭和50年、本校における長年の研修活動が道教育界で高く評価されるところとなり、50年・51年と標津高校は、北海道学校教育実践指定校となった。ここで本校における研修活動の歩みを概観してみたい。
本校における研修活動は大別すると、次の4期に分かれる。
第1期 昭和46年までの研修活動
第2期 47年〜49年の3カ年計画に基づく研修活動。
第3期 研究実践指第4期 定校の指第5期 定を受けた50年〜51年の研修活動。
第6期 52年〜54年の3カ年計画に基づく研修活動。
次に各期毎の特色を簡単に述べてみる。
(1) 第1期 本校における校内の全体的な研修の取り組みは、かなり以前に遡ることができる。一例を挙げれば、昭和35年から37年にかけて、本校生徒の実態から、特に中学校との連携を強化する必要に迫られ、町内の各中学校教員を招いての公開授業の取り組みがなされてきたなどがある。しかし、研修がより組織的になされ、本格化したのは42年度からであった。前年に着任されたばかりの第4代中辻藤雄校長は、42年度の学校経営の基本方針の一つとして、「(2)
授業の相互参観、批評」(3) を取り上げ、教職員の指(4) 導技術、専門性の向上を図った。以来、1学期と2学期に、それぞれ全教員が授業を公開し、お互いに参観しあい合評会をもつというパターンが定着した。さらに中辻校長は「(5)
実践のための教育理論を系統的に深めていく」(6) ことを目的とした研修ゼミナールを開設し、本校の研修計画の中に組み入れた。この研修ゼミナールは、当時系統的な教育理論の学習の場に比較的恵まれなかった本校教師集団の共感と支持を得て、以後の研修計画の柱の一つとして続けられたが、その初期には、具体的なテーマ選定とその展開など、中辻校長の豊かな教育研究の経験に負うところ大であった。その後、42年度は研修ゼミナールでの研究をふまえて定期試験の結果分析を試み、43年度には、生徒指(7)
導の充実のために全国共通の生徒意識調査・実態調査あるいは性格試験などを実施し、教育相談の研究を手がけた。また、44年度には、新たに各種講座・研究会等の参加者の報告が研修ゼミナールに加えられ、教員一人一人の研修の成果を全体の場に還元していくという方向が打ち出された。
以上のように、学校全体としての地道な研修・研究が続けられてきたのであるが、その間に研修・研究や実践の成果を記録することの必要性が考えられ、それに対する具体的な準備も進められたが、予算や時間不足、準備の遅れやその他の理由で結局実現されなかった。
(8) 第2期 新たに着任された荻田校長の下で、本校の研修活動は飛躍的に充実し、以後の研修活動の基礎固めがなされた。47年の年度当初において、従来継承されてきた研修計画の再点検、再検討の気運が盛り上がり、これまでの研修内容を詳細に検討し、本校の置かれた諸条件や本来の研修のあり方を吟味し、新しい構想の下に全体的な計画の修正、立案がなされた。それによると、従来の研修計画の中から「(9)
研修ゼミナール」(10) 、「(11) 授業研究」(12) を継承すること、新たに「(13) 学校研究主題」(14) を3カ年計画で設定し、それに研修・実践の評価のために「(15)
全領域の総点検」(16) を加えて4つの重点目標が立てられ、研修が進められた。また、受業研究については、従来のあり方から(イ)授業参観から受業研究への積極的姿勢への転換。(ロ)イに基づく「(17)
受業を見る観点の設定」(18) 、「(19) 目的を明確にした公開授業」(20) 、「(21) 受業研究の記録」(22) 、「(23) 学校研究主題と受業研究の関連」(24)
などの具体的な点での改善が図られた。同(25) 様に研修ゼミナールについては、研修計画全体における位置づけが再検討され、従来ややもすると他の計画から孤立化していたゼミナールを(a)「(26)
学校研究主題」(27) の実践を深め、確認し評価する場(b)「(28) 全領域の総検証」(29) の具体的な場(c)「(30) 受業研究」(31)
の成果や問題を確実に把握する場とした。そして、その基本的な性格・設定のねらいとして、
1、 定期的な研修の場を確保する。
2、 計画的な研修の場を確保する。
3、 実践のための理論的深化を目指4、 す場。
5、 本校の実践課題にアプローチし、その解決の方向を目指6、 す場。
7、 教職員どうしの共通理解の深まりを目指8、 す場。
9、 教師としての専門的な深まりを目指10、 す場
などがあげられ、その内容が改善されていった。
そして、第6代島利雄校長のもとで、49年からは、先の4つの重点目標に、さらに「学校評価」が加えられ、研修や実践を全体的・総合的に評価することが考えられた。またその間、中学校との連携も「標津町内中学校との交流研究会」を定期的に実施することで強化された。そしてこの第2期の研修・実践活動は、「実践と研修の記録」として年度ごとに集約され刊行されたが、とりわけ第3号は、学校研究主題である「生徒の主体性の確立」に取り組んだ3カ年の実践報告であり、その刊行の意義は大きかった。そして結果的には、この期における研修・実践活動が、全道的に注目されるところとなって、50年からの研究指定校の栄誉に標津高校が浴することになったのである。しかし、一口に研修活動といっても、日々の煩雑を極める業務の中でそれを遂行していくことは並大抵のことではない。当時の職員の苦労は、想像に余りあるものがあったであろう。そしてそれを支えてきたのは、「生徒のためによかれ」と思う職員の情熱であったと思う。この時期に教務課研修係として、実質的に本校の研修・実践活動を推進してきた佐藤脩先生、及び故笠原教頭は、第3号の後書に次のようにその苦労を述べている。
『事実に基づいた記録、実践そのものの記録を目指し、本校の研修の3カ年の取り組みの中から提起された問題、討議された内容、試みられた実践、その実践の成果や反省、評価などを3カ年のまとめという点から総合的に集約しようとした。この3カ年、とりたててこれぞというものをやってきたというずっしりとした実感は無いのだが、1年ごとに積み重ねてきた記録を見ると、些細なものを含めてかなりの量になったことも事実である。(中略)
この3カ年の歩みを振り返って、率直にいって「何をすべきか」「何をしなければならないか」だけを議論し合い、「何をなしえたか」「その結果はどうであったか」の議論が深まらなかったことも残念に思う。「何をなすべきか」の議論は「何をなしえたか」の反省の上にすすめられてこそ積極的な意味を持ったはずである。その意味でこの3年間も、いわば実践の核心に迫れず、ただその周辺をめぐり歩いていただけかもしれぬ。この3年間、担当者の力不足から研修の推進には何かと円滑さを欠く面もあったが、職員集団の理解と協力によって当初の計画を進めることができたことを素直に喜びたいと思う(後略)
(『実践と研修の記録』第3号「おわりに」−佐藤脩)
今春卒業した生徒と同じに、私たちの研修も3年間を経て当初の計画を終えた。卒業した生徒一人一人を見ると、3年間の学業でそれなりの成長の跡がしのばれる。なかに脱落していく生徒もあって、非力を反省するとともに、それなりに強く人生に立ち向かってゆくことを願わずにはおられない。3年間で達成された学業が明日からの人生に生かされることを願うとともに、私たちもこの3年間に日々はかばかしくない研修の積み上げを終えて、卒業生が感じる感銘と共通なものがこみ上げる。「今日よりは明日」「生徒のために」「教師一人一人が」と声を掛け合って過ごした3年間であった。挫折感に悩まされ、模索し、見失いそうになる「柱」をたて直し、また模索の繰り返しであった。
(3) 第3期
47年からの研修3カ年計画を終え、引き続き学校研究主題「生徒の主体性の確立のために」に取り組むべき、新年度の研修計画が練られていた50年6月28日、「昭和50年度学校教育研究実践校連絡協議会」において、標津高校が研究していこうとなった。
与えられた研究領域は、「生徒指導に関すること」であり、具体的には「学業指導の研究」がその課題であった。そのため従来の研修計画の変更を余儀なくされ、新たに校長・教頭・教諭9名からなる「研究推進委員会」が組織され、与えられた研究課題と学校教育目標、学校研究主題(従来のもの)との調和をはかりつつ、研究主題の設定と、その解決のための方法とが検討された。
第1回の研究推進委員会では、本庁より室田指導主事、及び根室教育局の町田指導主事を迎えて、研究推進についての協議がなされ、第3回の研究推進委員会に至って、研究主題の設定とそれに基づく研究3領域の決定、及び研究班の編成がなされた。その後各班での論議が煮詰められて、各領域での取り組みの具体案が各班より職員会議に提出され決定をみたが、それは12月中旬のことで、研究校の指定を受けてから実に5ケ月あまりの日時が協議・準備に費やされてのことであった。しかしこのことは、その間いたずらに日時を過ごしていたことを意味するものではなく、研究課題に対する職員の共通理解の深化と研修基盤の確立とが、確かになされたことを意味するものであった。
次にその研究主題と、研究3領域の課題とを紹介しておく。
○ 研究主題−○ 「○ 生徒一人一人が意欲的に学業生活に取り組む態度を育てるに はどのように学業指○ 導の充実を図ったらよいか。」○
○ 研究3領域・課題
第1領域(生徒会)
生徒の自主的活動を伸長する。
=各教科以外の教育活動の充実と発展を目指して=
第2領域(H・R)
生徒集団の協力を促進する。
=明るく活発なホームルームを目指して=
第3領域(教科指導)
教科指導の効率化を図る。
=生徒にわかる受業を目指して=
そして、全職員を上げて、それぞれの分野から主題の追求と、研修・実践活動が行われた。しかし、これらの取り組みが成果を収めるためには、解決せねばならぬ大きな障壁があった。昭和48年度から1間口増が実現し、地域の父母の要望は満たされたのであるが、そのことがまた、新たな問題を生じさせていた。それは、入学者学力検査合格者の得点の、顕著な低落傾向にはっきりと示された低学力社の激増による、学校の体質の変化である。また、列車、バス通学生の増加に伴う生徒指導上の諸問題、あるいは課外活動への制約、そして学校生活不適応・学習不適応に近い状態の生徒の増加などの問題であった。そしてこれらの諸問題の解決をめぐって、全職員の苦闘がくり返されたのであるが、52年の3月1日に、この間の研究と実践が、研究記録「北海道学校教育研究実践校研究報告書」に集約され、本校における研修実践活動の一応の到達点をみたのであった。その報告書の冒頭に、第7代清水国通校長先生は次のように感想を記している。
(前略)生徒の主体性の確立の3カ年(47年〜49年)、研究指定校の2年間(50・51年)。息つくひまもなかったが、われわれの足並みはそろった。生徒も、時々、少しずつだが一緒に歩む。遅々として曲折が多く、まだ外堀さえ埋まっていないといわれようが、そこへの小径ができた。その小径を、生徒も先生も、我々が歩み始めた。その2カ年の記録である。大方のご指導ご鞭撻を得て、力強く歩き続けたい。道東のこの地に、間もなく春がやってくる。
残された課題は多かったにしろ、生徒会の組織、機構の整備や、H・R活の充
実をねらっての特設活動の時間(土曜日1時間)の設定などによって、校内に新しい息吹を生じたことは高く評価されるのである。
(32) 第4期
残された課題の抜本的な解決を目指して、新たに3カ年の研修計画が、研究指
定校の報告を成し終えたばかりの52年に、疲れを厭わぬ職員の情熱によってたてられた。
初年度の52年には、それまでの研修の取り組みの反省をもとに、どのように充実、発展させるのかという研修の進め方をめぐっての多面的な検討がなされ、「生き生きとした生徒を育てる」ことが、研修の大目標として設定された。そして、その大目標を、学習、生活、進路、保健の4つの面から分析し、実践目標をそれぞれ設定し、研修が進められた。なお、現在の改訂された学校教育目標は、この時の研修の成果を踏まえたものである。
続く53年度には、前年に設定された実践目標にさらに迫るための研修が成されたが、新しく「研修委員会(部長と教科主任からなる)」が組織され、原案の検討や連絡、調整を図ることになった。またこの年は、「実践目標に沿った具体的な取り決めを進めつつ、生徒の実態をよりしっかりと把握する。」ことが研修の柱とされ、学力検査成績の分析、基礎学力テストの実施と分析、受業についてのアンケートの実施、生徒指導、進路指導、保健指導それぞれにかかわる各種アンケート調査がなされ、その結果の分析が行われた。そして、54年には、本校を当番校として、中高連絡協議会が開かれ、活発な論議が展開された。さらに3カ年計画の完成年度として、実践計画に基づく実践と並行して、3年間の研修、実践のまとめがなされ、「研修と実践の歩み」(研修記録としては通算第5号)が刊行された。
さて、これまで本校における研修実践活動を、その流れから4期に区分して概説してきたが、それに費やされた歴代職員の労苦と研修の成果は、もとより語り尽くせるものではない。研修それ自体は、教師である以上誰もが日々の実践の中で積み重ねていることではあるが、学校全体の中で明確に組織化され、営々と営まれてきたことはやはり本校の大きな特色であるに違いない。もちろん、小規模校故の苦しみもまたあったのである。職員の移動が極めて短いサイクルで行われ、また、辺地にある学校のため、新卒の若い教員が集まりやすいという実情は、研修活動の質を維持し、発展させていく上で、非常に困難なことであった。ともあれ、現在においても研修・実践活動の伝統は受け継がれ、生徒への還元を究極の目標として、続けられているのである。
(6) 舎増築と50周年へ向けての歩み
北根室地方における高等学校適性配置計画に基づいて、その最初の施策として標津高校の学級が、2間口から3間口に増設されたのは、昭和48年から50年にかけてであった。しかし、それに伴う校舎の増築は2教室にとどまり、他の1教室は特別教室の転用であった。また、特別教室、教務室、保健室なども2間口当時のままの状態で狭く不便をきたしていた。教育環境整備及び高校教育の一層の充実をはかるために校舎の増改築は急務であった。昭和53年に出された陳情書には次のように記されている。
(事由書)
1、 現状について
(1) 教室の問題点
・ 音楽室 普通教室と同・ 面積のものが増築されたにとどまり、グランドピアノがその1/4を占め狭く、その上防音装置もなく他教室への受業の支障となっている。
・ 被服・ 室 普通教室と同・ 面積であるため、実習には極めて狭く隣り合う者の作品が重なり合ったり肘が接したり、ミシンを置く余裕も不・ 足している。
・ 物理、地学実験室 美術教室がないため同・ 居を余儀なくされており、画架・作品・教材等が山積みしており、分離が不・ 可欠である。
・ 図書室 階段横にあり、放課後の喧噪は防ぐことができず、書庫・司書室がなく不・ 自由をきたしている。
(2) 管理棟その他の問題点
・教務室 2間口当時、16名の教諭の数でやや狭さが感じられていたところへ1間口の増と選任率向上のため6名の増があり、机間の余裕が不足し、生徒と対応する場所もない状況である。
・ 相談室 教具室を利用している状況で、顔を接して話をするほどの狭さである。
・ 保健室 ベッドを2台おく面積しかなく、養護教諭が配置されたものの狭さのため活動も充分に展開できない状況である。
・ 便所 2間口定員270名・ で不・ 足を感じていたものを405名・ 定員で使っており、やむなく職員用を解放して使っている。
2、 教育課程編成上からの必要性について
(1) 研究指(2) 定その後の取り組みについて
昭和50・51年度道教育委員会より研究実践校の指定を受け、学業指導の充実についての報告書を作成し責を終えた次第であるが、その後地域の特性に基づき学校の特色を確立すべく、教科以外活動の充実を図っている。
(2)情操教育の充実
昭和50年度芸術科教員の配置により専任率は100%と向上し、加えて音楽・書道・
美術の3分野に専門の教員を各1名ずつ配置することができた特性を生かし、施設面が解
決されるならば、芸術Vの演習も可能となっている。
(3)家庭科目の拡張について
女子生徒が半数以上を占める状況下では、食物・被服等の科目の履修をさせ、家庭生活
の基礎づくりをさせることが本校の特色の一つとなると考えられる。
(33) 選択制の拡大について
女子の家庭科目増に対応する男子の選択科目の設定や、今後教育課程の弾力化をはかるためにも、多様な科目を設定する必要がある。
(34) 職業科目の設定について
卒業後の半数は就職という地域性からいって、普通科であっても商業科目の設定も今後考慮する必要があり、現在所有する電卓・和文タイプ等の活用も検討していきたい。
(6)部活動の深化について
ブラスバンド・美術・書道・和文タイプ・華道等文化系の部活動やクラブ活動が展開されており、それらが更に多様化していく傾向がある上、標津町内に根付いている文化活動との直結を図ることも地域性の一つである。
(7)視聴覚教育の重視について
多様化する生徒には、視聴覚の機器を駆使してその効果をあげてきているが、更に専門教室を設けるならば、広範囲な教科での活用や学年をまとめての指導も可能となる。
(8)天候・気象について
標津湿原を形成した冷涼・寒風・濃霧という天候下では屋外活動が大きく制約をうけ、やむなく屋内に活動の場を求めることが多い。
以上の観点から増改築は急務と考えます。
上記のように、当初の計画では、多くの当別教室が増設される予定であったが、諸般の事情により、被服室、被服準備室、調理室、調理準備室の4室が増築され、視聴覚室、視聴覚準備室、音楽室、音楽準備室が改築されたに止まった。校舎増改築工事は昭和56年2月5日完了した。また、増改築工事の完了と同時に、今度は校舎新築へ向けて模索が開始され、現在に至っている。
昭和54年4月1日、清水国通校長は、北海道蘭越高等学校に転出され、第8代内藤義明校長先生が着任された。内藤校長は、本校の沿革史を研究され、本校の前身である標津高等女学校に着目した。そして、北根室の女子教育に果たした役割を高く評価し、あわせて本校との高い血縁関係を見いだした。
そして、56年2月6日、本校同窓会総会の席上で、高等女学校同窓会と本校同窓会との合併を提議し、満場一致で賛同を得た。これに及んで本校は、昭和9年の標津実践女学校の開校をもってそのスタートとし、新たに沿革史が改訂されることとなった。さらに昭和58年度を開校50周年の年とし、それに向けて記念式典、記念行事等の準備が進められた。
こうして、標津高校は開校以来、半世紀を数え、一層の飛躍・発展を目指して一世紀に向けての歩みが開始されることになるのである。
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