1.名称 忠類小学校 歴史 忠類中学校開校に至る経過
2.内容
忠類小学校の歴史

 本校は、明治25年頃、村内有志相謀り幾分宛の醵金により民家を買入れ(価格金35円)校舎に充て、安達總一郎氏を聘し、不便なる校具にて子女を集め読書を教授せるに、始まれり。

 其の後、外山某氏、また、前記の校舎に於て、子女に読書を教授せることあり。然るに明治31年頃、外山氏の当村を引去るや、廃学のやむなき状態になり村民ひとしく遺憾に思いたるも如何共すべき方法なく、学に心ある2、3の父兄はその子女を、標津郡伊茶仁尋常小学校へ通学せしめたり。

 然れ共、伊茶仁、本村間は僅々1里の行程なれども開拓未だ浅い時代なれば殊の外の悪路にして殊に、冬期は一層甚だしく、困難を感ずる有様なれば、父兄は一日も速やかに当村にもせめても寺子屋式の学校なりともと、渇望しつあり、明治32年ごろより当村の子女も、漸く多きを加えたれば、笹谷金太郎、阿部甲助の両氏は、村有志と再三の熟議をとげ、村理事者に迫り、辛うじて標津尋常小学校忠類分校の設置を見るに至れり。

 時に、明治33年6月19日なり、入学児童は男4名、女5名、合計9名なり。
 爾後20有余年の星霜を経、幾多の卒業生を出せるも、その間のてん末を審かにせず、為に本村の古老の口傳により以上を記録せり。

  大正5年10月  初代校長  奥田久次郎記


忠類中学校開校に至る経過

 忠類小学校は、明治末期に分教場、簡易教育所、教育所を経て、尋常小学校、国民学校から更に新学制による小学校に至る幾星霜の間、高等科、青年学校等の並置はなされなかった。そのため、向学心に燃える者たちは悪路8キロの道を徒歩をもって標津尋常小学校の高等科に通わなければならなかった。しかし、標津−忠類間の道のりは乗物の便は全くなく、通学する者は早朝未明に出発、約2時間を徒歩で登校時間に間に合わせ、下校が午後4時頃なれば自宅帰着は午後6時を過ぎるということが多かった。それが故に、いかに向学心があるとも通学上の困難性から進学ができなかった。

 昭和22年新学制が制定され、中学教育は義務制となって小学校卒業者は全員標津町の新制中学校に通学せねばならなくなったのであるが、前述のとおり当時唯一の通学道路である標津道路は極めて不完全で、晴天といえども登下校に長時間を要するため家庭学習の余地はなく、一度降雨に遭えば濡服のまま学習せざるを得ず、又冬期間は厳寒のため凍傷をうける者、吹雪のため遭難する者も生ずるに至り、出席率は著しく低下するに至ったので、校下父兄全員の決議により、忠類小学校に中学校の併置方を村理事者に陳情したのである。しかし、村当局は、村財政逼迫の理由の下に受け入れられず、幾度の立ち消えを繰り返したのであるが、校下父兄の熱意は一層強烈を加え、有志諸士また格段の努力を傾けて、ついに村長、尾崎勇氏を動かし、村長自らが実測に参加してこれを承認し、忠類小学校校舎に1教室を増築して中学校を併置することが決定され、ここに昭和26年9月1日をもって開校するに至ったのである。その後本校は順調に推移し、昭和43年までに第17回に及ぶ173名の卒業生を送り出したのであるが、近時道路整備も充実し、定期バスの運行、舗装完備など立地条件の好転に加えて、長期展望に立った学校統合への気運の高まりなどから、大乗的見地で標津中学校への統合に踏み切ったのである。時に昭和43年3月のことであった。

「忠類小学校開校100周年記念誌」より



3.写真・図版

大正9年校舎正面



大正9年校舎正面
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