1.地名 忠類
2.読み チュウルイ
3.解説
古くはチウルイ・チウル井と書いた。根室地方中部、忠類川流域、東は根室海峡に面する。地名は、アイヌ語のチュウルイ(急流の意)に由来する。(北海道蝦夷語地名解)

〔近世〕チウルイ
江戸期から見える地名。東蝦夷地、はじめアツケシ場所、のちキイタツプ場所を経て、ネモロ場所のうち。「天保郷帳」では「ネモロ場所之内チウルイ」とある。地名の初見は寛政元年の国後・目梨のアイヌ蜂起に関した記録で、飛騨屋の支配人助右衛門が運上屋見廻りに来たときの記事に「四月末(寛政元年)キイタッフ領のうちチウルイと申所え参二、三日罷在」とあり、「於蝦夷地横死助命の者名前書上」によればチウルイの番屋で番人8人が死亡している。(蝦夷地一件/新北海道史7)。またこの時、チウルイ沖で停泊中の飛騨屋の手船大道丸がアイヌに襲われ、乗組員14人中13人が死亡している(同前)。さらにこの決起にチウルイから24人のアイヌが参加していた(寛政蝦夷乱取調日記/庶民集成)。「東夷周覧」には「チウルイ、コノ所鱒・過臘魚ノ強アリ土地ヨリ野菜類生ス、休泊の澗ナシ」とある。文化年間の「東蝦夷地各場所様子大概書」によれば、ネモロ場所内10か所の番屋の1つがチウルイに置かれている(新北海道史7)。文政7年にはコタヌカ・クン子ベツ・サケムイの3か所に出張して鱒漁を行い、鯡はノツケ、秋味はシベツに出稼ぎしている(蝦夷地名考并里程記)。松浦武四郎「初航蝦夷日誌」に「チラルイ川有。巾三拾間、船渡し。鮭多く、土人共先年十七八軒も有しが、今は漸十軒、人別三拾人」と見える。安政3年にはチウルイ番屋持の出張漁小屋がノツケに置かれている(根室旧貫誌)。玉虫左太夫「入北記」では、アイヌ住人7軒・28人。松浦武四郎「戊午日誌」には「チウルイ……川の手前に番屋一棟、茅蔵二棟、板蔵二棟有……川をこへて川原まヽ弐三丁過るや、上のかたに番屋一棟、板蔵五棟、弁天社一棟、制札、井戸、前に標柱有……其辺りに土人小屋七軒有……合して人別弐十八人。是もノツケ、子モロ等え出稼す。此処の番屋は只鮭計のよし也」と見える。明治2年根室国目梨郡に属す。同5年忠類村の一部となる。

〔近代〕忠類村
明治5年〜大正12年の村名。目梨郡のうち。江戸期のチウルイ・コタヌカなどからなる。成立時はチウルイ村、明治8年からは忠類村と表記。はじめ開拓使の管轄、同15年根室県、同19年からは北海道庁に所属。明治10年漁場持ちは廃止されたが、しばらくは藤野喜兵衛によって経営され、人口も増え始め、サケも豊漁であったという(標津町史)。
同年の戸口は本籍8・31、寄留42(野付標津目梨景況調)。同12年頃チイ子ノホリ近郊に硫黄鉱が出ていて、硫黄山の下に温泉があった(明治十二年各郡書上根室国)。同13年忠類川の渡しが始まる。同14年当地から崎無異までの山道が開かれたという(標津町史)。同18年斜里山道が開削され、瑠辺斯に駅逓設置。同二十三年山道を通った佐藤喜代治の旅行記によると、山道は12里で、そのうち悪路は6里、瑠辺斯と標津の間に椴山休泊所・金山休泊所が置かれていたとある。同29年糸櫛別駅逓所新設。同36年頃から入植者が入り、明治末期から大正期にかけては家族連れの入植者が増加、また瑠辺斯駅舎の南方に塩類泉湧出、竹沢の湯と呼ばれた。明治19年竹沢温泉への道路を開設したとき、忠類川支流のソギシマプあたりで石油を発見、翌年試掘が出願されたという。また大正元年の試掘、採鉱区調査に、金銀銅60万坪とある。明治24年の戸数53・人口252(男137・女115)、船95(徴発物件一覧)。同25年地内有志で教育活動を開始した。同33年標津小学校の分教場となる。明治28年当時の職業は漁業雇・樵夫・木挽などで、漁業はニシン・サケを主としマスおよび雑魚が多少あった。同年の水産製品は鰊搾粕2270石・塩鱒10石・塩鮭944石で総額2万1550円であった。牛馬の所有者は数人で、瑠辺斯駅舎にはおよそ40頭いて夏期は近くに放牧し、冬季は半数は雪の少ない伊茶仁に送り、牧丁1人をつけて飼育したという(殖民状況報文根室国)。明治22年のサケ豊漁をピークに漁獲は減少し(標津町史)、同30年の国有未開地処分法によって土地の無償貸付が始まったことなどにより、大牧場が作られた。出願者は根室・東京・千葉・函館など(同前)。同36年藤野辰次郎、同40年大橋が牧場を開く。同41年笹谷牧場開設。同44年には忠類に笹谷・斎藤・今井の各牧場、椴山に鈴木・陶山・瀬尾の各牧場、チシ子に藤野の牧場、古多糠に伊藤・佐藤・栗城・鈴木・沢谷・山形の各牧場があった(根室要覧)。明治25年忠類川にサケ人工孵化場が目梨漁業組合によって創られたが、採卵成績が悪く、同31年に廃止。「殖民状況報文根室国」によれば、同28年当時当地は針葉樹に富み建築材を移送していた。同44年頃は材木運輸など諸種の雑業によって生計する者が大半で、牧畜を専業とする者がやや多かった(根室要覧)。大正7年秋田木材が忠類に主張所を置き、忠類製材工場を建設してから、秋田・青森両県からの転入者が多くなる。板、各種の建築用材を主とし、箱類を作り、朝鮮・満州(中国東北部)方面へ輸出。大正5年忠類外二村漁業組合が古多糠に設置。同8年忠類川支流イケショマナイ川で銅・金・銀を含む鉱床が発見され、根室鉱山とよばれる。瑠辺斯鉱山は、大正6、7年頃東京二益商会が探掘に従事したが鉱量が少なく休山。同9年世帯数154・人口741。同12年2級町村標津村となる。

〔近代〕忠類村
大正12年〜昭和4年の標津村の大字名。大正12年の世帯数149・人口252。同15年秋田木材忠類工場は閉鎖。もと従業員で忠類酪農実行組合を設立、22世帯が笹谷牧場の一部開放を受けたが、冷害凶作も続き数年も続かなかった(標津町史)。この頃当地は枕木材などの角材製造が行われ、汽船でのランニング積みが盛んとなる。昭和2年部制から区制に移行し、当地は第9・10・11区となる。大正末期に当地でサケ漁業権をもっている人の漁場の地名としてコタヌカ・ヒライト・チウルイ・チシネ・鱗平・クンネピラ・モセウス・、マス漁場としてチウルイ・コタノカ・クンネピラ・チシネ・コタヌカピラ・ヒライトクシナイ、ニシン漁場としてチウルイ・ヒライト・コタヌカ・チシネ・ヒライトクシュナイ・コタヌカピラが見える(大正十四年度地方税、漁業税各個賦課表)。昭和4年大字が廃され、字忠類・古多糠となる。

〔近代〕忠類
昭和4年〜現在の行政字名。はじめ標津村、昭和33年からは標津町の行政字。もとは大字忠類村の一部。標津から川北・中央武佐・中標津方面へ昭和2年から殖民軌道が通っていたが、同10年簡易軌道忠類線が敷設、川北―椴山―古多糠間を運転。同4年標津〜羅臼間でバス運行。同28年廃止となったあとは開拓農道として整備され、同29年上忠類橋架橋(標津町史)。忠類川の運行は、渡し船によっていたが、昭和14年釣橋ができ、同32年永久橋に架け替えられた。昭和初期に不漁が続いたので、漁家に馬の飼育を奨めた。昭和9年忠類集乳所開設。昭和27年北海道鮭鱒増殖漁協根室支所が置かれ、忠類川でも親魚の捕獲作業を行う。同35年忠類簡易郵便局が開局。同40年忠類小中学校は情操教育のモデル校として完成。同49年忠類養魚池完成。忠類川でのサケの捕獲数(尾)は、昭和31年136、同45年501、同55年6125、採卵数(粒)は昭和31年1万4729、同45年5万6700、同55年3500、放流数(尾)は昭和36年126万5000、同45年162万2000、同55年350万。サクラマスの捕獲数は昭和31年75尾、同47年8尾、採卵数は同31年1万3270粒、同47年7000粒、放流数は同47年9万4000尾、カラフトマスの捕獲数は昭和31年1491尾、同48年1413尾、採卵数は昭和31年24万650粒、同47年12万3000粒、放流数は昭和46年179万2000尾。標津町ではまちづくり推進委員会規定を設けて、同51年度は当地を重点的に開発推進したので、忠類まちづくり推進委員会をつくり、既設の忠類開発期成会と協力して事業を進めた。昭和58年忠類忠類川〜忠類坂に至るバイパス道路が完成。世帯数・人口は、昭和7年68・391、同40年82・341、同52年65・249。
4.地図 工事中
5.参考文献 角川日本地名大辞典1北海道 上巻
標津町百科事典 / 標津地名の由来 /  /  /  /
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