1.地名 川北
2.読み カワキタ
3.解説
〔近代〕昭和4年〜現在の行政字名。はじめ標津村。昭和33年からは標津町の行政字。もとは標津村大字標津村の一部。地名は標津川の北側に位置することによる。明治45年河野竹太郎を団長とする手塩団体8戸が自由移民として入植したのが始まり。大正2年奥勝平を団長とする長沼団体8戸のほか山口利八・河内弥太郎、同3年松実孝太郎を団長とする奈良団体13戸が入植。同3年に奥は雑貨店を開業。同4年32戸となり、弓削蠖三により私設標津原野教育所開設、児童数18。同年辰田不染が入植し、浄土宗本願寺派説教所を創設(標津町史)。同5年当時標津原野には開拓道路甲線と乙線があったが、道幅は荷馬車が通れるだけしかなかった。(養老牛の今昔)。当地は大正初期の標津原野への入植者の中継点となり、川北市街は急速に発展、同7年の戸数23。大正5年椴山付近へ新潟団体が入植、13戸となり、この集落は北標津と呼ばれる。同7年から昭和4年にかけては約40戸の入植があった(標津町史)。北標津には馬の放牧地があったが、関東大震災の救済措置で解放され、大正13〜14年に34戸が入植。大正元年大地積払下げを受けた沢田市右衛門の牧場は、同7年中村千松が買受け中村牧場となる。中村は水田の試作、味噌の醸造の試作のほか、同15年川北製材合資会社を設立、川北温泉を開発したり、第1次大戦中は温泉から塩をとったりもした(同前)。大正12年頃国有地の無償貸付けを受け共同放牧地となる。昭和元年殖民軌道が標津まで開通、川北に停留所設置。昭和4年の世帯数47。同12年国鉄標津線計根別駅〜根室標津駅開通。昭和5年種馬所設置。同6・7年は大凶作で、救済土木工事として斜里山道、7号道路の改修実施。同7年補助牝牛36頭を購入。同9年川北集乳所、同14年北標津集乳所開設。大正13年川北尋常小学校に高等科併置。大正10年川北尋常小学校の付属北標津特別教授所・同付属川北特別教授場開校、同10年両校を合併した北標津尋常小学校と改称。同22年川北中学校開校。同23年川北中学校北標津分校開校。同27年十勝沖地震により川北小学校が倒壊。昭和18年海軍飛行場用地の測量が始まり、農家の一部は移転。同21年北標津で青年酪農実践会結成。同会の調べによる乳牛(頭)・乳量(石)は、昭和14年70・738、同30年137・1500。昭和24年川北温泉療養所開設。同33年川北集乳コールドステーション竣工。同45年牛乳出荷量2万石達成。昭和44年児童公園完成。同49年北標津開拓記念之碑建立(標津町史)。大正7年高野山真言宗善照寺創設。同14年浄土真宗本願寺派染覚寺本堂建立。大正8年天理教北標津分教会建設。世帯数・人口は、昭和40年395・1,954、同52年479・1,774。

4.地図 工事中
5.参考文献 角川日本地名大辞典1北海道 上巻
標津町百科事典 / 標津地名の由来 /  /  /  /
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