1.名称 標津町年表 1700年〜1869年
2.内容

1700 元禄13   元禄御国絵図を幕府に献上。この図に「ちべ内」と記載。標津が文献に表われた初め。
1701 元禄14   厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
1758 宝暦8   ノッシヤムの乙名シクフが部下2、3千人を率いて宗谷アイヌを襲撃、60余人を殺し、200余人を傷つけた。
1759 宝暦9   藩士湊覚之進は7月シクフを厚岸に招き、昨年の騒乱を罰し、手印として宝物を提出せしめて許す。
1773 安永2    
1774 安永3   霧多布外3場所を飛弾屋久兵衛に請負わす。クナシリ脇長人ツキノエ飛弾屋の交易船を妨害。
1783 天明3   夏宗谷、目梨のアイヌ8、9百人が餓死。
1783 天明3   秋飢饉、年かわれど止まず。
1785 天明5   幕府派遣のえぞ地分検隊標津を通過。この時ツキノエ隊長に会いたがり松前藩士に阻止さる。
1786 天明6   9月7日夜幕府派遣の神通丸は標津沖で五社丸は西別沖で暴風のため沈没。
1789 寛政元   国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1794 寛政6   運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796 寛政9   小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
       
1799 寛政11   幕府は東えぞ地(箱舘から知床までの東海岸)を7ケ年を限り仮直轄。
1799 寛政11   夏、松平信濃守忠明東えぞ地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る野付に通行屋できる。
1800 寛政12   伊能忠敬東えぞ地を測量して作図。
1801 享和元   幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視せしめる。江戸よりの探検船凌風丸7月12日忠類沖に碇泊。標津で始めて引網を試みる。
1802 享和2   幕府、東えぞ地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1802 享和2   冬、西えぞ地斜里、宗谷の狩猟うすく、根室領メナシに至り救いを求めるもの218人に及ぶ。
1804 文化元   エトロフ島で始めて越冬した松田仁三郎は、帰路漂流し、標津へ上陸し二日逗留。
1806 文化3   斜里越道路、標津〜斜里間37里余り修理。
1810 文化7   高田屋嘉兵衛根室場所請負。
1811 文化8 6月  6月 露将ゴローニンほか7人捕えられて、野付を経て松前へ護送。
       
1812 文化9   野付水道にて高田屋嘉兵衛露艦に捕えられ、カムチャッカに抑留。
1813 文化10   材木屋七郎右衛門、根室場所を5,634両で落札、請負となる。
1815 文化12   高田屋金兵衛場所請負となる。
1821 文政4   幕府、えぞ地を松前藩に返還。
       
1831 天保2   高田屋金兵衛密貿易の嫌疑により失脚。藤野喜兵衛場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ケ所の漁場を引き継ぐ。
1839 天保10   山田文右衛門場所請負となる。
1843 天保14 3月    根室国地方に大津波あり。
1845 弘化2   白鳥宇右衛門、浜田兵四郎共同請負となる。松浦武四郎始めて東えぞ地を知床まで探検。
1849 嘉永2   再び藤野喜兵衛の請負となる。始めて「標津場所」の名称を用いる。
1851 嘉永4 6月    藤野請負人自費をもってトボロ川に土橋を架す。
1854 安政元   村垣淡路守巡行。
       
1855 安政2   幕府、松前、江差地方を除く全島を直轄。東えぞ地は仙台藩の警備地となる。
1856 安政3   ニシベツ川上流の漁猟権について、釧路アイヌと根室アイヌが紛争。
1859 安政6 11月    会津藩領地となる。
1862 文久2   藤野を免じ、山寺権次、吉川次郎助に標津場所を経営せしむ。
1864 元治元   字ホニコイに、3年がかりにて会津陣屋を建設。
1865 慶応元   山田屋寿兵衛漁場請負となる。
       
1869 明治2 8月    えぞを北海道と名づけ、11国86郡を設定。場所請負人を廃止。漁場持と改称。
1869 明治2 10月    根室開拓使に出張所を設ける。
1869 明治2 12月    山田屋寿兵衛より漁場を引きあげ、開拓使物産掛の管理下におく。熊本藩支配となる。


3.写真・図版

4.参考図書
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