1.名称 野付半島の龍神岬 波にのまれた宗平
2.内容
これは、野付半島の龍神岬に伝わる話です。

むかし、むかし、宗平という元気な若者がおりました。宗平の家は、父も、祖父も、曾祖父もずっと先祖代々漁師をやってきました。腕前がよくいつもたくさんの魚をとるという評判のよい一家でした。

宗平もあとをつぎ、漁師となりました。子どもの時から家の手伝いをしていたので、宗平も大変腕のいい漁師でした。 ある日、宗平は仲間達といつものように漁に出かけました。

力いっぱい舟をこぐと、舟はすいすいと矢のようにはやく進みました。この日はよい天気で波もおだやかでした。誰もが 「今日はきっと大漁にちがいない。」 と期待に胸をふくらませていました。

野付岬の沖について網をうち、漁をはじめたときです。突然、空はみるまに黒雲におおわれ、強い風が吹き、おだやかであった海は、荒々しい波をたてはじめました。大きなうねりが次々ときて、仲間の舟も木の葉のようにもまれました。みんなは必死になって、岸へ向けて、一刻もはやくもどろうと力いっぱい努力をしましたが…、あっというまに舟はつぎつぎにひっくりかえり、みんな海へほうり出されてしまいました。

宗平の舟も転ぷくしてしまいました。宗平は夢中になってもがき、仲間を波間からさがしましたが、誰もみえなくなりました。

宗平は水をたくさんのんでしまい、もうだめだとあきらめました。その時、大へん美しいおとめが宗平の方へ近寄ってくるのがちらりと見えました。死にそうな宗平は、そのおとめのきれいな衣服が自分をふんわりと包んでくれたような気がしました。しかし宗平は、そのあとは意識がなくなり、何もわからなくなってしまいました。

宗平がはっと気づいたのは、静かな野付岬の砂浜でした。嵐がおさまったおだやかな海は、青白い月の光にキラキラと輝いていました。宗平は、死にそうになった時にちらりとみたおとめが、そばにいるのに気がつきました。

宗平を助けたおとめは、それはそれは美しい人でした。二人は、月の光にてらされた砂浜を歩きながらいろいろ話をしました。二人は大変気があい、すっかり仲よくなって毎日楽しくすごし、結婚をする約束をしました。宗平は、自分の村に一度帰ってくることにしました。

村では、死んでしまったとあきらめていた宗平がもどってきたので、みな大喜びでした。両親は、宗平に嫁をとらせようと前々から考えていました。元気で帰ってきたので、おめでた続きにこの際、嫁をと強くすすめました。

宗平は、自分を助けてくれた美しいおとめと結婚の約束をしていたので、縁談をことわりました。

両親がお嫁さんにとすすめた人は、網元の娘さんでした。網元は宗平を大変気にいっておりましたし、両親は網元からたくさんの借金をしており、その借財を返していくほどの余裕がありませんでした。それで両親は、網元の娘さんと宗平が結婚することをのぞみ、宗平が好きな人と結婚するのをみとめませんでした。両親の苦しい立場に、宗平は無理がいえずになやみましたが、とうとう網元の娘との結婚を承知してしまいました。

やがて、結婚式もめでたく終りました。宗平の住んでいた村では、式のあと新郎と新婦が舟に乗って二人だけで漁に出る習慣がありました。宗平たちもこの習慣に従って、海のおだやかな日に舟に乗って初漁に出かけました。

やがて舟がノツケ岬にさしかかると、今までのよい天気は一変してすざまじい風が吹き、波は狂ったように荒れ、舟は沈みそうになりました。

その時、かつて宗平を助けてくれたあの美しいおとめがあらわれましたが、あっというまに恐ろしい龍に変わって、宗平夫婦にたち向かってきました。宗平たちの舟は海の底深くに引きずりこまれ、二人の姿を二度とみることはできませんでした。

この後、ノツケ岬を通る舟に若い女性が乗っていると、必ず大あらしになって恐ろしい龍があらわれ、舟と人を海底に引きずりこみました。それで無事に帰れた人はいませんでした。

村人は、舟がよく沈められた海の海岸に祠を建てて、ねんごろに龍神をまつりました。それ以来龍神に会った人はいないということです。

その岬のことを人々は「龍神岬」と呼ぶようになりました。 祠は、明治時代の末に尾岱沼に移されました。

現在は白い燈台が建ち、航海する船の安全をはかっています。

(解説)
この話は、根室・千島両国郷土史(昭和八年)という本の中に古野生祐吉さんという人が書いたものをもとにしました。戸田久吉さんによると、もっと古い時代に書かれた小冊子を見たことがあるとのことで、原本があると思われます。

江戸時代、明治時代は龍神岬や、根室半島の納沙布岬沖を船が通るのは大へんなことでした。多くの船が沈んだり、破船したことが龍神岬の伝説を生んだのではないかと思われます。

龍神岬には古くから祠がありました。年代のはっきりしているのは、安政五年(一八五九年)に大阪で造られた祠です。祠の裏に「安政五年三月吉日、大阪新町宮井之辻、細工人宮屋吉右衛門、同半次郎,柾居惣之」と記されています。ですからこの年か、翌安政六年に龍神岬(現在の北斗水産裏の道路のそば)に建てられたものでしょう。それ以前のことはよくわかっていません。

祠を注文した人は、当時根室地方の漁場を請負っていた藤野喜兵衛という人か、その漁場で働いていた支配人とか責任者のような人ではないかと思います。祠の中には、明治十八年に改築した時のことを記した木板や漁場の支配人や大工棟梁の名前を書いた木板などがありました。豊漁を祈り、航海の安全を願うための祠ですが、明治時代の末には守る人もなく、いたむので明治四十二年十一月に尾岱沼へ移されました。

昭和二十五年に「大綿津見神社」と改め、同三十六年に社を新築、「野付神社」となりました。

3.写真・図版

4.参考図書 西村武重「北海の狩猟者」昭和四十二年 山と渓谷社より
5.著者 筆者名 :
連絡先 :
電子メール : 
執筆日 :
標津町百科事典 / ふるさと学 / 標津に伝わる話 / 野付半島の龍神岬 /  /
標津町 (c) copyrights 2000, Town of Shibetu. All rights reserved.