1.地名 標津
2.読み シベツ
3.解説
根室地方中部、標津川流域。東は根室海峡に面し、北西部に標津岳・斜里岳がそびえる。地名はアイヌ語のシペツ(大川・親川・本流の意)に由来する(蝦夷地名考并里程記・北海道蝦夷語地名解・地名アイヌ語小辞典)。一説に、シベオツ(サケがいるの意)に由来するともいう(戊午日誌)。

〔近世〕江戸期から見える地名。東蝦夷地、はじめアツケシ場所、のちキイタツプ場所を経てネモロ場所のうち。元禄13年「松前島郷帳」に「ちべ内」とあるのがシベツのことか。一説に「ちべ内」は茶志骨川(別称チプルー)下流のコヱトイに比定する考え方もある(地名辞典)。「天保郷帳」では「ネモロ持場之内、シベツ」とある。幕府による天明の蝦夷地調査の記録に「クナシリ島の酋長帰帆仕、本蝦夷地シベツと申所え罷越」(蝦夷地一件/新北海道史7)、「銅山、東蝦夷地シベツの奥山にあり」(蝦夷国風俗人情之沙汰/庶民集成)。と見える。寛政元年場所請負人の過酷なアイヌ使役に対して起こった事件では、めなし領党の者89人のうち23人はシベツの住民であった(寛政蝦夷之乱取調日記/庶民集成)。寛政9年には「シヘツ水ヨシ、此処平山木有リ、秋味番屋小屋有リ、川有リ幅五六間舟渡シ早瀬ナリ砂浜、当初ヨリ平地木立原十二三里行、ケニタヱと云所有リ」と標茶方面へ出る山道について記されている(蝦夷巡覧筆記)。この頃シベツはサケ漁が豊富であった。シヤリへ行く山越道もつけられた(蝦夷道中記)。文化年間の「東蝦夷地各場所様子大概書」(新北海道史7)によれば、ネモロ場所10か所のうちの1か所で、アイヌ住民もあった。また、秋味漁の季節にはクナシリからの出稼ぎがあり、そのため番屋・蔵もあった。松浦武四郎「初航蝦夷日誌」に「シベツ、此処番屋有。此川源はクスリ領より来るよし也。……領小屋、夷屋五軒。并ニ弁天社、板蔵等有。秋味漁よろし」とある。安政3年のアイヌ住人25軒・116人、夏中からの定居番人は漁方・大工・木挽・鍛冶・その他18人で、春は鯡漁、夏・秋は鮭漁に従事。建物は仕入物蔵2・米蔵・介抱魚囲蔵・網蔵3・鍛冶蔵・塩切蔵・炭蔵・木工小屋・板蔵6・雑蔵2、クナシリ運上家持シベツ出張漁小家・板蔵3・茅蔵があり、そのほか制札場・観音堂・弁天社・井戸各1があった(根室旧貫誌)。玉虫左太夫「入北記」によれば、「シベツ村、土人家二十六軒、人別百二十人」。ただし健康なアイヌはノツケ・ネモロなどへの出稼ぎにかり出され、住人は老人ばかりであった(戊午日誌)。明治2年根室国標津郡に属す。同5年標津村の一部となる。

〔近代〕標津村
明治5年〜大正12年の村名。標津郡のうち。江戸期のシベツ・モサフト・シユラ・サンボツギ・トヱビラ・チナ、アシタロマツフ・チラヱワタラ・ケ子カブト・ホンケ子カ・カンチウシ・ホンケ子タイ・ケ子ワツカウイなどからなる。成立時はシベツ村、明治8年から標津村と表記。はじめ開拓使の管轄、同15年根室県、同19年からは北海道庁に所属。明治8年「標津目梨両郡書上調」によれば、戸数27・人口130、うち寄留同居住人8戸・33人、アイヌ19戸・97人で、標津漁場では、鯡〆粕83石3斗、塩鱒199石7斗2升、塩鮭699石の収量であった。同年郵便局開局。同10年漁場持廃止。以来暫時移住者が入る(殖民状況報文根室国)。同12年の戸口は、本籍25戸・119人(うちアイヌ22戸・94人)、寄留17戸・131人(野付標津目梨景況調)。同年戸長役場を設置。初代戸長槇は、明治10年頃自宅で寺子屋教授をしている。同13年開拓使から医員1名が派遣されて仮病院設置、同16年公立病院となり、同23年廃止、村医を置く(殖民状況報文根室国)。明治16年根室警察署標津分署設置。同17年標津から斜里への新山道開削。同22年標津外七ケ村水産物営業人組合が置かれ、同組合は同25年標津鮭人工ふ化場を作る(標津町史・俣落の歩み土のふるさと)。明治20年に役場内に併置された登記所が同32年根室地区裁判所標津出張所となる。明治19年曹洞宗龍雲寺が許可となり、同23年真宗大谷派敬栄寺は布教を開始。同34年標津神社は創立許可となっているが、天保13年の年号のある花崗岩製の燈籠一対が残存しており、それ以前から社があったと思われる。明治27年公設消防組設置。明治24年の戸数184・人口734(男401・女333)、馬15、寺院1、学校1、船171(徴発物件一覧)。同28年の戸数212・人口1347、漁業24人、漁業雇は村民の3分の1、職業別戸数は商業30・工業21・農業4・官吏7・船乗8・宿屋8・料理屋飲食店5・貸座敷5・金貸3・医師1・代書人1・雇入受宿1・湯屋1。漁業産額は鰊搾粕360石、拾鰊搾粕37石、塩鱒446石、塩鮭515石(殖民状況報文根室国)。同29年藤野辰次郎が藤野缶詰所を建て、サケ・マス・ホッキ貝などの缶詰を製造(根室千島実業家名鑑)。同32年同所の失火により、戸長役場・警察分署を類焼。同34年40戸を焼失。同42年標津村のほか近隣の水産組合が合同して根室外四郡水産組合と称す。翌43年標津出張所設置。同44年は187戸・867人、漁業権は鰊引網1・鱒角網4・鱒引網5・鮭角網4・鮭引網5。牧場は標津3・三本木1・武佐2(根室要覧)。大正2年部制を設け20部に分かれる。同3・10年と改正され28部となり、昭和2年31部となり、同4年区制となる。大正8年標津〜中標津間開削道路完成。同年標津漁業組合、標津産業組合設立。明治44年原野への入植が始まったが、道内各地へ一度入植した人の再入植が多かった。大正同12年二級町村標津村の大字となる。

〔近代〕標津村  大正12年〜昭和32年の標津郡の自治体名。標津村・伊茶仁村・茶志骨村・忠類村・薫別村・崎無異村が合併し、二級町村として成立。旧村名を継承した6大字を編成。標津原野の開拓につれ、川北や現中標津町の武佐・中標津・計根別地区に市街が形成。大正末年頃当村と別海村の境界について争いがおこる。昭和元年標津〜中標津間に拓殖軌道が開通し、木材の搬出が盛んとなる。同2年北海道農事試験場根室支場が中標津に設置。同4年大字が廃され、茶志骨・崎無異・薫別・古多糠・忠類・伊茶仁・標津・川北・武佐・開陽・俣落・西竹・養老牛・上標津・計根別・当幌・中標津・俵橋の18字を編成。昭和元年、同6,7,9,10年はコガネムシの大発生、気候不順、低温などで大凶作、離農者も多かった。昭和3年標津家畜市場が開場。同年市街大火、中心街52戸焼失。同年の戸数2025・人口1万510、職業別戸数は農業1386、商業170,漁業96,工業120、その他253。同5年標津市街の一部は中標津火力発電所により点灯。同年酪農組合により生産乳の共同処理を開始。同7年37行政区とする。同12年国鉄標津線全通。同年標津漁協設立。同24年解散され再び標津漁協となるが、標津・薫別・標津東部の3つに分かれる。昭和20年の世帯数2764・人口1万6164。同21年字武佐・開陽・俣落・西竹・養老牛・上標津・計根別・当幌・中標津・俵端と茶志骨の一部が中標津村として分村。同27年十勝沖地震、標津村の被害は全・半壊流失5戸、罹災者29人、被害額79万円(標津町史)。同28年北海道サケ・マス増殖漁協根室支所開設。同29年浅海増殖事業としてホタテ稚貝放流事業開始。同31年集約酪農地域に指定され、ジャージー牛の導入始まる。同32年の世帯数1511・人口7948。同33年1月1日町制施行。

〔近代〕標津町  昭和33年〜現在の標津郡の自治体名。村制時の8字を継承。

〔近代〕標津村  大正12年〜昭和4年の標津村の大字名。昭和4年大字が廃され、字標津・武佐・開陽・俣落・西竹・養老牛・上標津・計根別・当幌・俵橋・中標津・川北が起立か。

〔近代〕標津
昭和4年〜現在の行政字名。はじめ標津村、昭和33年からは標津町の行政字。もとは標津村大字標津村の一部。昭和4年の世帯数200。同12年国鉄根北線標津〜斜里間が起工され、斜里〜越川までは開通したが、同15年戦争の拡大により中止。同22年標津沿岸に高潮があり、中央商店街を含む80戸が浸水。翌23年石枠護岸工事施工。
4.地図 工事中
5.参考文献 角川日本地名大辞典1北海道 上巻
標津町百科事典 / 標津地名の由来 /  /  /  /
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