1.名称 開拓史 南古多糠入植40周年のあゆみ
2.内容

1 入植の状況
思い起こせば昭和12年十勝北見の拓殖実習生が12戸で部落を結成したのが始まりである。入植予定地は鬱蒼と繁った大森林の中に狩り分けられた基線道路があり、現在の開館の位置に共同小屋が2棟道路の両側に建っていた。建物はバラックで中仕切りも何もないガランとした板の間である。そこへムシロを敷き布団を敷いて寝るのである。吹雪の夜は、布団の上に雪が積もることが度々ある。第1陣が田村家で、家族6人が居小屋の一隅を占領した。隣の布団が渡辺家、その隣が斎藤家というように重なり合って布団を敷く…。田村家が中標津に着いたのが2月12日であった。

先ず移植者世話所に入植のあいさつを告げる。世話所主任曰く「ガソリンカー(汽車はない)が吹雪のため不通であるから開通するまで(1週間くらいかかる)宿で待っていてくれ」と言って宍戸旅館に案内してくれた。

主任さんの話では、ガソリンカーで川北まで行きそれから3里半馬橇で… 古多糠に着くのは夕方遅くなる…。古多糠に着いたら藤巻さんという入植世話人がおられるので案内をしてもらって居小屋へ行け…と言う。
 
中標津到着から9日目にようやく開通した。

やはり、藤巻さんに辿り着くと薄暗くなっていた。おばあちゃんが親切に私共の食事を持ってカンジキを履いて我が子を迎えるように居小屋を案内してくれた。大雪のため居小屋はスッポリ埋まり、ちょっと高くなっているだけ……ここが入口だと言われたので、借りてきたスコップで玄関と窓をほった。今では想像もつかない大雪でどうにもならなかった。

故郷を出てから十数日目である。心細い旅路を経て受けた藤巻さんの親切は今でも忘れることができない。その後も藤巻さん一家は毎日のように居小屋にこられ、色々と土地の状況等を教えてくれたりして慰めてくれた。風呂等は現在の村田さん迄行って世話になったが、安全ランプをぶらさげての帰りは昼間でも暗い程茂っている森林の中だけに、寂しさが常に頭から離れなかった。開拓者とはこんなものかと若い私の胸をつくものを感ぜずにはいられなかった。

入植予定地は、基線道路を中心に両側間口50間、奥行300間の5町歩が本地で10町歩が増地として離れている。いわゆる集落の形成方式である。6号防風林を起点として入植順に土地が定められた。

昭和12年5月20日初代部落会長蔵本重春氏は次の12戸をもって拓北部落を結成した。

6号防風林より入植順
昭和12年2月〜5月20日迄の入植者
現在の9号下の入植者である。
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│山本光男          │早坂有             │
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│田村豊作 │佐藤重雄 │
├───────────┼────────────┤
│栗原清夫 │矢野豊雄 │
├───────────┼────────────┤
│斎藤佑次郎 │ 瀬清一 │
├───────────┼────────────┤
│中村喜三郎 │蔵本重春 │
├───────────┼────────────┤
│佐藤諭 │渡辺運雄 │
├───────────┼────────────┤
│大久保太郎 │千葉惣次郎 │
├───────────┼────────────┤
│ │中沢武右門 │
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昭和13年〜14年までの入植者
┌───────────┬─────────────┐
│谷内喜久夫 │西村忠良 │
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│谷野助次郎 │鳥井善六 │
├───────────┼─────────────┤
│秋保定志 │ │
├───────────┼─────────────┤
│高橋広 │ │
├───────────┼─────────────┤
│田口徳五郎 │ │
├───────────┼─────────────┤
│稲井計行 │ │
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至海岸

続いて現在の九号上に昭和14年から16年頃まで入植、拓北集落を構成した。当時の9号上は熊笹も根曲りに近く巨木の切り株は人畜を寄せ付けず、開拓の困難さは筆舌に尽くし難いものがあった。

加えて熊、エゾリス、野ネズミ、野鳥等の被害が甚大で農耕を断念せざるを得ない状態で、僅かに野菜を作り造材、炭焼で生計を立てた。

開拓者として腰を下ろす暇もなく、戦争はたけなわとなり男は容赦なく戦場へと…。残った家族は厳しい自然との戦いに疲れ果て、女手一つではどうにもならなくなり、故郷へと姿を消した。夫の帰還をただ一つの頼りに踏みとどまっていたものも数戸あったが、戦死・抑留等未帰還となり、涙をのんで故郷へと姿を消した。この状態は拓北も同様であり、両部落は維持困難となり、18年5月合併した。

しかし、拓進は道路が悪く加えて夕方になると熊の出没がはげしく、買物に出ても3時を過ぎれば拓北に泊まらなければならない状態となったため、11号付近に残った7戸は拓北の離農跡地に移転し、残ったものは離農のやむなき状態であった。

拓進部落入植者(9号上で初代入植者33戸、昭和14年〜16年頃まで)
 順不同
 渡辺武 佐藤一郎 高橋左近 菊地
 更谷直継 小針義雄 田中 山田
 藤井修吾 高橋松三 三好 梅沢
 上野喜一 大野卯一郎 中村薫 蔵本
 八条七太郎 横山栄吉 風間 塚田実
 生田進 三浦清 高曽正一 谷
 生田久治郎 杉岡艦 成田
 生田健三郎 宮崎信二 関
 高橋清水 矢本寅吉 高山巌

上の外、入植して間もなく転出した者もいる。

2 居小屋の共同生活から戸別住宅の建設へ

次々と入植者の到着に伴い、居小屋は超満員になり、知床にも春が訪れ住宅の建設にとりかかる。蔵本部落会長思案の板木の合図で目を覚まし、共同炊事、共同作業と……順調に事業は進み、栗原技術部長の設計により同型の文化住宅が一町歩宛残した原始のままの屋敷林の中に次々と建てられ家族の多い者から我が家に腰を落ち着けたが、どの家族も入植6ケ月位あとであった。移動製材機の野田組、大工の奥山組、製柾の伊藤組等で、居小屋の近辺は夜を徹しての大作業場であった。

1戸上棟する毎に餅まきだ。紅白のもちが文化住宅の棟上げから遠慮なく笹藪の中にまき散らされ、がさがさと笹をわけて拾ったあの気分は忘れられない。

当時の住宅で現存するものは、田村豊作と渡辺運雄宅である。補修は加えられているが、当時の住宅としては文化的なものだった。

3 開墾の状況

雪は融けたが土肌が全然見えない……?
丈余の熊笹と伐採の枝木で覆われて…鉈、腰鋸を腰にぶらさげて大きな鎌を振り回しての防火線切りだ。島田鍬で地肌を出さなければ火入の許可がでない。……土が燃えて山火事を起こすから。それでも幾度か山火事を出して真黒な顔をして走り回ったことが思い出される。

火入が終わったが、木の切株の上を渡って歩ける程抜根がある椴松、エゾマツが繁茂して空が見えないところが珍しくなかった。

話はそれるが、木を切ったことのなかった私は、筏木が面白いものと考えて新しい鋸を手に勇んでとりかかり、電信柱位の木を11本切ったが、1本も倒れない。次々と引っかかって。それほどの密林だったのだ。おかげで蔵本会長から筏木馘首の宣告を受け、帳場を命ぜられた。この仕事も初めてだ。

薄暗い程繁った森林の中に入り、木の皮をけずって番号を入れる仕事や、切った丸太を計り、夜に石数を出す仕事である。どの仕事もつらい仕事の連続だ。…しかしこれがまた楽しい。小川に橋のようになった丸太を計っていると、下でピチャピチャ跳ねるものがある。鱒のホッチャレという奴とセッパリというしろものだ。これも初めて見る。生まれつきこんな事が嫌いでない私は、捕まえるのに夢中だ…。気が付いた時は、せっかく調べた野帳がポケットから飛び出し鱒とともに逃げたらしい。こんな日はおとなしく夕食の膳についたものだ。厳しい重労働のなかにこんな楽しい一面もあった。

4 何でも穫れるが収穫ができない…?

入植した年は試験的に大豆小豆からイナキビ、トウキビ、菜豆類等何でも穫れた。トマト、西瓜等素晴らしいものであった。残念なことに野獣、野鳥の被害で収穫できないのである。豆類は山鳩、穀類はエゾリス、シマリス、ネズミ等のため、刈り取ると一夜でホウキのようになっていたものだ。

開拓が進むにつれ、だんだん穫れなくなり馬鈴薯、麦類、ビート位に限られてきた。それに3年に一度位の大冷害という天災の訪れで…… それにコガネ虫の大発生の年も経験した。冷害に強い馬鈴薯、ビートを考えたが、抜根が多いため馬車を引いて搬出することさえできなかった。このため生活の手段は馬産と出稼ぎに限定された。

5 馬産と造材出稼ぎで生計を立てたがこれも限界があった。
筏根に悩まされ畜力をさえ利用できない実態のなかで、戦後開拓の制度に乗った地域は火薬抜根で人力から畜力へと作業転換することができ、農業者として食糧増産の面目を全うすることができたが、私共は、この制度に乗ることができず、再三の陳情にもかかわらず谷間の開拓者としてジーット我慢の子であった。辛うじて馬産と造材で生計を維持したがこれも限界が来た。機械による馬の需要は減退し、森林資源にも限界が訪れたのだ。

6 大東亜戦争で親愛なる先輩諸侯を失い…

経営の前途に光明を失った……

戦争で経営主を失い、経営の面では馬産と木材の衰退期を迎えた。若き拓北の青春部落も一転して女部落に変わり、k故郷への引き揚げのやむなきに到り、50戸に及んだ両部落が14戸となり、18年5月合併せざるを得ない状況となった。

このときである。我々の幸を約束づけるものは酪農以外にない事を再確認して、抜本的な恒久対策を打ち出すべく決意を固めた。

推進対策として

第1に経営基盤の整備、特にこの頑強な筏木の除去を最重点とし、草地の拡大を急いだ。
(空地の増反化と交換分合を含めて)

第2には乳牛の多頭化であるが、これには適切な制度資金もなく当時の話題になっていたジャージー牛の導入に踏み切った。これと共に乳牛の流出はもちろん、生産牝牛の売却を抑制した。このため、負債は一時的に増加を辿ったが、生産基盤確率のための手段としてはやむを得なかった。

第3は販売作物の作付けを牧草作に切り換え、永年草地の改良に拍車をかけた。一意専心牛と肉で生きることを決意した。しかし、乏しい経済力のなかでの変身は生やさしいものではなかった。

7 酪農専営への道は険しい

乳牛専営を指向したが、導入対策に苦慮し遅々として進まない。有畜農家創設資金や農業近代化資金、寒冷地畑作振興資金等々制度資金ができたが、一番大事な土地基盤整備が伴わない。

31年高度集約酪農地域の指定を受け、ジャージー牛26頭の導入を見た。国の施策もようやく根釧原野に及んできた。33年国費補助により装置改良事業が始まり、34年から重抜根事業が始まる。

しかし、これも戦後開拓者のみで……ここでも指をくわえてジーット我慢の子であった。……がしかし、夢に見た機械開墾、胸のすくような立派な草地が生まれ始めた。笹やぶに繋がれた牛もそろそろ影を潜め、悠々と大草原で草をはむ牛群があちこちに見え始めた。

この間に電気、水道、能動改良事業がピッチをあげてきた。

不毛の地根釧原野が酪農王国大根室としていよいよ生気に満ち始めた。

8 経営構造の一大転換が必要になってきた。ー国際社会に対応する大型機械化農法への転換のため物心両面から抜本的経営の構造改善に乗り出す。

こんなミミッチイことでは急転する国際社会に対応することはできない。経済成長は止むことを知らず、まさに停滞することは後退を意味する状態となってきた。

折りよく構造改善事業が実施されることとなった。鳴り物入りで宣伝したがなかなか乗ってこない。5割の補助事業なのに。それもその筈、当時にしてみれば、食うための農業から大農経営への転換であったから。

9 営農集団の結成

 39年1月標津町が農業構造改善の胎動を始めたとき生まれた生産的集団組織である。営農集団というグループ意識、連帯意識が経営改善に勇断をもって臨むことができた。互いに進めているという気持ちが、長期的見通しをもって大幅な投資や規模拡大を可能にした。1戸1戸で対応するより、グループで連帯意識の下に励まし合い、研究しながら進められる場合、資金を借りる本人も、貸す農協もより積極的に取り組むことができた。

激動する70年代の世界農業のなかで堅実に生き残るためには、個人の存在はきわめて弱い。連帯意識と技術開発が今後の対応に大きく要求されることを考え、より強い人の和が必要であると考え実践した。

10 荒廃の極に達した戦後の部落再建のために組織活動に徹した婦人部の力は大きい。

青年部落だけに戦争で蒙った打撃は大きい。しかも、機械力、資本力の乏しい同士が腕1本を頼りに厳しい大自然に挑戦するには、人の和を基本にした共同の力で対応する以外にない。

27年円満会を結成……物心両面に及ぶ冷厳な試練を人の和でと…お互いすさぶ心のよりどころを求めるため、話し合い慰め合いをしながら新生活運動を実践した。

その主なる活動の概要は…(住民活動として)
・会服の制定(衣料品不足時代)
・バザーの開催
・物品の共同購入
・教育懇談会の開催
・澱粉含有量測定
・小家畜の飼養管理
・営農計画に家族全員参加
・家計簿記帳
・共同作業後の接待禁止
・冠婚葬祭の簡素化
・各種見舞の返礼廃止
・軽スポーツ、運動会の実施

住民活動
健康で明るい家庭、住みよい地域社会の形成を目指して…
○眺めて楽しめる酪農経営の実現を…
・経営環境の整備充実
・環境美化のための砂利敷き
・排水溝の造成
・道路側溝の草刈
・ハエ・蚊発生源の絶滅
・芝生の造成
・カン、ビン類等の共同処理
○魅力ある経営の確立を目指して
・情熱を燃やして仕事に取り組む
・土、草、牛を愛し育てるよろこびを体得する。
・ハウス野菜の栽培
・花壇造成
・趣味の会を育成
・自家用車による家族ぐるみの町内外視察
・充実した生活優先の労働
・家族ぐるみのレクリエーションの実施

11 開拓過程における牛との闘い

奥地の森林資源の開発が急速に進んだため、熊とのたたかいが始まった。十勝岳が大爆発を起こした37年を忘れることができない。それ以前にも熊の害は珍しいことではなかったが、この年は当地開拓史上最大の被害であった。ハンター2名が死亡、3名が重傷、家畜は牛48頭、綿羊23頭、馬2頭が殺傷害という大被害であった。町役場に熊害対策本部が設けられ、自衛隊の出動を要請し学童登下校の輸送にあたってもらった。被害が一番多かったのは今の望洋台牧場である。

禍転じて福となす……とか、この熊の巣が道営の模範牧場となり、38年着工、43年に完成し、今は町の望洋台牧場として1千頭の乳牛群が緑一色の大地にカスリのように点在している。正に将来の世界一の大酪農地帯を約束づけてくれる。

翌38年は川北地区に出没、4頭の愛牛をむさぼり食った。頭に血が上ってかライフル銃でなぐりつけ、銃はバラバラに折れ、たいへんな損害を蒙った。少年マガジンに出されたのもこのことである。今もなお殺し屋の看板で熊害対策に従事中……足跡を見ると愛犬と共に血湧き肉踊るくせがなおらない。


12 将来への展望

生田の紆余曲折はあったにせよ各指導機関の時宜を得た指導援助は勿論であるが、乏しい経済力の中で牛と共に生き抜く事を只一つの目標と定め40年1日の如く強靱な忍耐力で総てを克服し、今日を迎えられた同志諸子に対し、今静かにその苦年を忍び深い敬意を表します。
この苦しかった40年私共を支えてくれたものは…
信頼感に基づく人間関係の融和と連帯感である。これが私共の大財産でもある。これがある限り如何なる障害があろうとも乗り切れる自身がある。

私共は今苦しいトレーニングを終えたランナーである。体調を整え、明日から新たな目標に向ってスタートする。これからが本番なのだ。国際経済下で。厳しいコスト意識、技術革新等々総てはかねてから期しあるところ!完成への苦闘が始まっていることを自覚してより強い闘志を誓い合う日といたしたい。

本日この祝賀にあたり各指導機関の方々の一層のご教示を切望すると共に酪農の先駆者の方々や一般町民の方々に心から謝意を表し、稿を終えます。拙文をお詫びいたします。
                    南古多糠40周年記念祝賀委員長 田村 豊






入植40周年をかへりみて
                                    田村豊作
私は6号防風林付きの原始林に昭和12年2月入植したものです。当時共同居小屋と称したバラックが2棟建設されてありまして、そこへ入植者が入り共同生活をすることとなっていました。早々我が家を建設するため、色々同志と協議を重ね共同生活により家材の抜材作業をい、移動製材機を頼み着々と家材はできあがり、5月中旬頃には1戸2戸と我が家ができる見通しがつきましたが、この間の苦労は言語に絶するものがありました。

共同の力により我が家に安住することができ、朝霧のかかった原始林の中から三々五々かまどの煙がたなびくのを眺めた時の心境は大望の楽土の建設の第1歩を踏み出した事のしるしとして、このよろこびは私の一生忘れることのできないものです。

いよいよ開墾にかかりましたが、筏根や風倒木で手の着けようもなく、ただ島田鍬でコツコツやるのが精一杯でした。現在のようにブルドーザーで片付けるなら、1町歩2町歩はたちまち立派な農地になってしまいますが……

昔の原始的な苦労を思い出さずには居られません。当時この機械があったならとつくづく思うのです。40年間色々な難関がありましたが、関係機関のご指導やらその他の方々のご協力を得まして、総てを克服して今日を得ましたことを心から感謝いたしております。

私にとって、この40年は一生をこの地に打ち込んだ40年であり、そして75歳という年になり一生を終わろうとしていることを思えば誠に意義ある尊い40年でもあります。


















南古多糠開基40周年記念式を迎えて
                                    渡辺運雄当部落は昭和12年、当時の北海道拓殖実習場十勝と北見の修了生が中心に入植したもので、当時根室と言えば人の住むところでないと言われた位で、入植決定されたものの中に多数中止した者がいた。当時入植地としては根釧原野をのぞいては駅から3里も5里も離れたところに点々とあるだけで、そんなところに入植してもどうにもならず、当時の場長松野傳氏の情熱的な指導に頼り入植したのです。

昭和初期の冷害凶作で根室原野の農民が道庁にムシロ旗を押し立て押しかけ、時の長官佐上信一氏が計根別小学校に来て殺気立った農民を前に警護の任にあたる警察当局は机を並べて障壁をつくったが、長官はそれを取り除かせ胸襟をひらいて膝を交えて話し合い、俺を信じてもう暫く頑張ってくれと言った話を聞かされ入植した。

私達は3月16日結婚、函館移住者簡易宿泊所で一夜を明かし、中標津の宍戸旅館に泊まり、移住者世話所の指導で色々な道具を用い目的地に向かいました。当時汽車は中標津しかなく、それからガソリンカーに乗って川北に着き、徒歩で約4里の雪道をモンペ姿の新婚旅行……。古多糠につき現地の世話係藤巻さんの所で昼食後、おばあちゃんに送られて現地に着き、元気な同志の顔を見てほっとした。荷物は池本さんという人に馬そりで運んでもらった。次の日から、板木を合図に共同作業で住宅の建築作業が始まった。入植当時は家族も少なく、農業は名ばかりで造材山の出面とり、電気もなくランプの暗い生活をした。そんなわけで、農業指導員もいたが縁の遠い存在だった。名誉町民として最後を飾られた本町発展の功労者植松適氏が口癖に言っていた。木材が無くならねば農業は発展しないと……の言葉通り農業は遅々として進まず、そうこうしている中に7月のある日盧溝橋に銃声一発、日支事変が始まり在郷軍人の訓練が始まり、更に戦争は激しくなり16年12月8日には大東亜戦争が始まり、12年と14年の2回に入植した約30戸余り、うち男という男は招集され女部落と言われたほどで、部落の存在も危ぶまれる位になった。

自分も食うや食わずの家族を残して応召、栃木県黒田原で負けたことのない日本が20年8月15日……敗戦国民は虚脱状態になり茫然自失の状態だった。

戦争のため、戦死やら離農やらで30戸余りの部落の存続が危ぶまれる姿になった。その姿はさびしくあわれなもので……

昔、伊藤仁斎という学者に5人の子があり、何れも名前に「蔵」の字がついており、これを伊藤の五蔵と言い、そのうち長男と末子が優れていたのでこれを「伊藤の首尾蔵」といったそうだが、田村豊作という頭と渡辺運雄という尾が辛うじて骨皮筋エ門の姿でつながっておった所へ田村、川瀬の両氏をはじめ入植者が入ってきて現在の部落が存続されたわけで、特に田村、川瀬の2組のカップルはリーダーシップの持ち主で、男女それぞれ車の両輪の如く部落発展には大きな原動力となった。

昔は東や北部落のように谷間に水を求めてバラバラに入植したいわゆる疎舎制であったが、我々の入植方式はモデルケースとして密舎制を取り入れ、間口50間奥行300間とし、隣を近づけ井戸その他の共同利用を考えた。はじめは同じ釜の飯を食った同志で、オイと呼べばオイと応えるといった具合で非常に良かったが、家畜の増殖につれ狭くなり、そのうち離農者も出たので関係者話し合いの上現在の姿に交換分合した。戦後開拓制度の実施により入植者も僅かに増え、また種々の農政も打ち立てられ中期融資による乳牛道入等が行われ、寒冷地根室原野では利益の少ない穀物農業から酪農転換の様相が現れてきた。

昭和35年頃から経済も上昇し、いわゆる神武景気とか岩戸景気、いざなぎ経済とか言葉の意味もよく解らないままに無我夢中で過ごしてきたが、当地はまだまだ哀れな姿であった。

昭和36年農業基本法が制定され、我が部落も40年に入って構造改善事業が実施され、現在のようになり大型機械や自家用車を持ち、自分ながら驚くと共に天下を取ったような気持ちになり頑張った。特に44年全国47団体の中から選ばれて朝日農業賞を受けたときは、古多糠生活いな生まれて初めての感激であった。これがピークで酪農も、農政が悪いのか努力が足りないのか、横這い状態どころか下降線を辿り、前途に不安を感じている。大型投資は必ずしも悪くはないが、過剰投資という収支の不均衡は危険だ。一日も早くこうした危険区域を脱しない限り、楽しい酪農はまだまだといった感じだ。

根釧パイロットができたとき、さすがは国の力だナと感心したが、これも結果は悪いようだし、八郎潟も茶志骨パイロットも……

また、スタートしたばかりの新酪も何だか思ったようではない。動機論としては日本農業を振興させるためのモデルケース、テストケースとして認めるが、結果論的には政治家の売名手段で国費の無駄使いの感がある。こうした試験研究は必要ではあるが、塗炭の苦しみをしている我々既存農家の再建に力を入れて欲しいと懇願する。草地の老朽化、過剰投資どちらを向いても行き詰まった。

入植40年の記念日にあたり、64年の生涯の大半を過ごした40年の農業生活を振り返り、人生の一まとめと思いつたないペンを取った。サラリーマンなら定年退職というべき所だが我々には定年はないので働けるだけ頑張るつもりだ。

43年に行われた北海道開基百年記念誌や50年に出版された雪印乳業五十年記念誌を読んで戦陣の苦労の跡を偲んだ。官選町長の時代は足元にも寄れなかったが、民選町長になって時代が変わり、何でも話し合えるようになった。隔世の感がする。特に40年の古多糠生活に、いな64年の生涯を通じてお世話になった思いで多い人がある。給仕から始まって町の発展に努め、最後の10余年は町長として町民の信望を集め、本町をしてランプが電気に変わった程明るい町づくりを完成した前町長小野幸三氏の人柄に対し深甚なる敬意と謝意を表すると共に、業績を讃え永久に後世に語り伝えてやまない。

入地記念に家の前に植えた桜も直径一尺余りになり、記念に次の句を作った。
  風吹かば 想い起こせよ 桜の木
       四十年の風雲に耐えし苦労を
こもごも湧き起こる40年間の想い出を頭に浮かぶままに書きしるした。今日の佳き日を迎えることが出来たのは健康であったからだと……よろこんでいる。我が家では40年間健康保険を使ったことがない。最近入歯の保険がきくので一寸世話になった。

裸で太陽の恵みを身体いっぱいに受け、拓北のトウチャンはこれからだヨ。
3.写真・図版

4.参考図書 南古多糠入植40周年記念誌より(南古多糠部落会)
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